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奇跡の番組 Part6

 土曜日の夜、闇も深くなり、生活の喧騒も遠く去っていくとき、NHKのFMにチャンネルをあわせると、まるで森の奥に聳え立っている一本の木立から放たれるように、「名曲の楽しみ、吉田秀和」という声が流れてくる。なにもかも数値といったもので決まっていく時代にあって、これは奇跡というものに属することだった。吉田秀和さんは一九一三年の生まれだから、今年九十四歳である。九十四歳の人がラジオの定時番組を持っているなど、今日ではありえない奇跡に属する出来事であろう。土曜の夜である。しかも九時という時間帯(再放送が火曜日の午前十時から)に組まれている。FM放送といえどもゴールデンアワーのなかのゴールデンアワーである。民間放送ならば絶対に成り立たない、いや、公共放送だって常軌を踏みはずした番組編成である。

 名曲の楽しみといっても、だれもが知っている耳になじんだクラシック音楽が流れてくるわけではない。いまこの番組で取り上げられているのは、リヒャルト・シュトラウスである。シュトラウスが世に残した作品のほとんどが、彼の失敗作といったものまで含めて何週にもわたって放送されていく。よほどのクラシック愛好者でなければ、ちょっと近づけない番組である。
しかしこの番組は、ただのクラシック音楽の番組ではないのだ。この番組がオン・エアされるとき、この英語の表現のごとく、吉田さんの言葉と音楽が、この日本の空に広がりわたっていく。それはあたかも森の木立が光合成によって、いっせいに清新な酸素を大気に放出するさまに似ている。汚れた大気をふり払う生命とよみがえりの声である。日本の退廃をせき止める声であり、疲労と衰弱で疲弊していく大地の中に流し込む声と音楽の雨である。日本人の大多数は、こんな番組が存在していることさえ知らない。

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対話編


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