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シェクスピア・アンド・カンパニー 書店の仲間たち

 それは一九一九年のことだった。アメリカの若い女性が、パリの裏通りに《シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店》と名づけた小さな書店を開業した。小さな書店だったが、そこにジョイスとか、ヘミングウェイとか、T・S・エリオットとか、ジイドとか、ヴァレリーとか、今日名を残しているきら星のような作家たちがたむろし、新しい文学運動の拠点になっていく。あの名高きジョイスの「ユリシーズ」などはこの書店から生まれたのである。この書店主がシルヴィア・ビーチという女性で、彼女はやがて大作家たちになっていった作家たちとの交流を描いた本を出版する。それが《シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店》という本で、いまではこの本は「ユリシーズ」とともに歴史に残る名著になっている。

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 書店は、いまやすっかり有名になっておりました。書店にいつも新旧おりませだお客が群がり、新聞や雑誌はますます詳細に書店のことを報道しました。アメリカン・エクスプレスの旅行者たちが通る際には──バスでやってきては、十二番地の前に二、三秒停まりました──この旅行者たちにさえ書店が紹介されました。

 それでも、シェクスピア・アンド・カンパニー書店は不況に深刻な打撃を蒙り始めておりました。私たちの事業は、私の同胞が去ってしまったためすでに、被害を受けており、急速に没落していきました。フランスの友人たちは残っておりました。彼らは、故郷に引き上げて行った私のお客たちが残した穴を埋めることができたかもしれませんが、彼らもまた不況の波を受けていたのです。

 三○年代の中頃になると、事態はまったく急を要するものになりました。一九三六年のある日、アンドレ・ジイドが私がどのように暮らしているのかみに寄ってくれた時、私は、店じまいをしようと考えていると彼に話しました。ジイドは、このニュースに肝をつぶしてしまいました。「われわれは、シェクスピア・アンド・カンパニー書店を閉めることなどとてもできない!」と彼は大声をあげました。そして脱兎のごとく通りを横切ると、彼はアドリエンヌ・モニエに、私が彼に話したことが真実かどうか尋ねました。残念ながら、彼女の言う通りだと私の話を確認することだけでした。

 すぐさまジィドは、私の救済計画を立てるために作家グループを集めました。彼らが最初に考えついたことは、シェクスピア・アンド・カンパニー書店に補助金を与えるようフランス政府に嘆願することでした。嘆願書には作家たちやソルボンヌの著名な教授たちが署名しました。しかし、その補助金は不十分でした。特に、私の書店のように外国事業を援助する場合は、十分な援助が行われませんでした。

 次いで、ジョルジュ・デュァメル、アンドレ・モロウ、ジャン・ポーラン、ジュール・ロマン、ポール・ヴァレリーといった錚々たる作家や詩人たちで、委員会が構成されました。この委員会の会報に、私の書店を救おうという訴状を書いたのは、私の親友シュランベルジェでした。その頃には、これで確かにシェクスピア・アンド・カンパニー書店は、再び立ち上がることができたでしょう。

 この委員会の作家たちは、順番に私の書店で未刊の作品の朗読する企画を立てました。この朗読会は一カ月に一度行われる予定でした。シェクスピア・アンド・カンパニー書店の会員として寄付を出したものが、この朗読会に出席する資格を与えるということでした。登録者は二百人に限られました。なぜなら、この小さな書店に押し込めることのできるこれが最大限だったからです。二百人以上もの多くの人々が、会員なることを希望したようです。幾人かの友人には特別な寄付をしてくれました。

 最初の朗読はアンドレ・ジイドが行いました。彼は「ジュヌヴィエーヴ」という彼の作品を選びました。次はジャン・シュランベルジェで、彼の未完の小説「サン・サチュルナン」を朗読しました。その次には雑誌の編集長であり言語学者であるジャン・ポーランが登場しました。彼は新しい作品「タルブの花々」の最初の部分を朗読しました。興味深いものでしたが、ほとんど理解不可能な作品でした。アンドレ・モロウは素晴らしい未完の物語を朗読しました。ポール・ヴァレリーは、ジョイスの特別の要請に従い、「ル・セルバン」を含め、彼のもっとも美しい詩を幾つか朗読しました。

 T・S・エリオットが、シェクスピア・アンド・カンパニー書店で朗読するためはるばるロンドンから駈けつけてくれた時には、私はとても感動しました。アーネスト・ヘミングウェイは、公衆の前での朗読には反対という彼のルールに一度だけ例外を作り、もし、スティーヴン・スペンダーが彼に加わるよう説得できるならば、朗読してもよいと承知しました。そこで、私たちは二人の朗読会を開くことができました。なんとおおきなセンセイションをひき起こしたことでしょう!

 この頃、私たちは、こうした有名な作家たちや、また私たちの仕事がうまくゆきはじめたという新聞報道などによって、大変な光栄に浴しました。私の友人たちが、このように私のために尽くしている以上、私自身もなにか犠牲にすべきだと考えました。私は最も貴重な宝を幾つか売り出そうと決心しました。私はまずこうした売買についてロンドンで有名なある商会に接近することからはじめました。彼らは私が送ったリストに特に強い関心を寄せました。この取引は、私の依頼で彼らがジョイスのもの、特に「ユリシーズ」に関係するものは押収される危険があるのではないかどうかという調査をする段階まで進められました。彼らはそうした危険性が多分に起こり得ることを知り、私たちはしぶしぶこの売買を止めることに同意しました。

 私が持っている資料の小さなカタログを発行したのは、こうしたエピソードがあった後のことでした。おそらくこのカタログはジョイスの蒐集家たちには届かなかったか、あるいは、三○年代にはジョイスのものを集めている者はいなかったのでしょうか、いずれにしても私が受け取ったほとんどの返事は、私がヘミングウェイのものを持っていないかと尋ねる手紙でした。私は、私の可愛がっていたヘミングウェイの「初版本」や貴重な署名などと不承不承別れることになりました。

「シェクスピア・アンド・カンパニー書店」 シルヴィア・ビーチ 中山末喜訳河出書房新社 一九七四年刊

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この名著は絶版になっている。この本を草の葉ライブラリーで復活させようとしている。

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シェクスピア書店を前にしてシルビアとヘミングウェイ

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