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女性と男性の人的資本の差異による人生難易度に着目するー生得的か、後天的かー

今や令和日本社会においては、本来強者であったはずの男性が弱者に転落すると、弱者男性という不名誉な名称で自称・他称されるようになった。もはや男性こそが弱者であることを、もう一度確認しようというのが今回のテーマである。

生まれながらの資本を持つ女性、持たない男性

性別により「武器」となりうるスキル、性質は異なる。女性の場合、生まれながらに持つ「性的資本」(肉体による魅力)と、同様にやや生得的に得られるコミュニケーション能力、「社会資本」(人脈)を有する。性的資本においては年齢とともに減少するが、概して男性より高値で推移する。後者の社会資本においては、男性が年齢とともに利害関係のない、職業上以外の友人が出来にくくなっていくが、女性は年齢を経ても孤独になりにくい点が挙げられる。それは一般的にいうと、狩猟採集社会において男性は狩りをするのがメイン、女性は集落内で集団生活を維持する方向に遺伝的に発達しているとすれば、女性の生来のコミュニケーション能力の高さは、先天的、生得的資本となる。
さて、男性の場合は、武器となる資本は、令和日本において外見や身長といった生得的人的資本(容姿)も重視されるようになってきたものの、それは依然として、資産(所得・年収)と、社会的地位(職業、学歴、地位、業績)となる。つまり生まれた後に本人の努力によって獲得してきた実績によるものである(運や、親ガチャ成功によるアドバンテージも関係ある)。つまり男性においては、ただ生まれるだけでは十分な生きる力(人的資本や社会資本)を備えていないのである。容姿は重視されるものの、女性の人的資本として交換できる性的魅力に比べると微々た流ものである点と、容姿で勝負しようとすると、女性よりも相対的に圧倒的に高い容姿が求められる点において、男性の人生は後天的努力により獲得すべき物事があまりにも多い。

なぜ令和女性の人生はイージーモードなのか

前節の結論としては、女性に生まれるだけで得られるスペックがあまりにも強力であって、それだけで、男性の後天的に築き上げた資産・学歴・職歴に肩を並べうるものであるがゆえに、努力を怠ったり、運が悪かったりして失敗した男性については、そもそも後天的努力の要素が低い女性よりも「負けてしまい」、弱者に転落してしまう。
本来はそれでも男性の方が性別的な所得格差があまりにも大きかったため、女性の資本と男性の資本の価値は釣り合っていた。しかし男女雇用機会均等法など、さまざまな雇用の均等化によって、男女の賃金格差は減少してしまった。いまだに格差があるのは端的にいうと女性の方が「まともに」(フルタイム・常勤・重役)働かないから平均でならすと女性の方が低いように見えるだけである。つまり男性の所得による資産は女性に対抗するほどの武器ではなくなってしまった(あくまで平均値だが)。つまり女性を上回る所得がないと女性の資本(魅力)に対抗できない。ゆえにただの所得では男性はもはや弱者男性として振る舞うしかなくなってしまったのである。さらに平等ではなくそもそも、女性優遇法制度により、男性は9割が弱者男性なのではないかとも思える世界に突入してしまった。
女性は努力せずに先天的に得た性的魅力と社会資本スキル(コミュニケーション能力)により孤立を防ぎ、男性が生きるために必要な高収入や所属企業や地位、役職に対抗できるのである。つまり後天的努力が男性に比べて必要ないという点で、令和女性の人生はイージーモードなのである。つまりは高地位高待遇高収入に向かわない男性は、弱者男性になるリスクが高まる。

高学歴高地位を目指す男性のパラドックス

しかしながら、男性は高学歴高地位高収入を目指せば目指すほど、今度は逆に真の友達や仕事上以外の人間関係を築きにくくなるのではないかという仮説を考える。もちろん真の金持ちたちは本当に喧嘩をせず、円満な関係を築く能力に長ける人々が多いのは間違いない。そちらの方がビジネスチャンスに恵まれるからだ。縁を大切にしているがゆえに美味しい高資産持ちのみで共有される話が舞い込んでくる。だが、そうやってうまく真の金持ちコミュニテイに入り込めればいいが、そこに辿り着かなかったり、そこから転落したりした場合に、中途半端にプライドの高い、社会的地位だけが高い、社会資本(人脈)のない高学歴難民が誕生する。つまり男性には女性の本能に刻まれたコミュニケーション能力が欠如したまま、ある程度の社会地位を獲得した男性たちが紛れている。彼らには職場以外のコミュニティはない。友達もいない。結果、精神的不健康のリスクが高まり、恋愛市場において男性の方が「成功」難易度が高いため、結婚できない。孤独も弱者男性の一類形である。人脈により得られるさまざまな情報からもシャットアウトされており、理系の大学生で例えると、部活や友達から過去問が回ってこないので留年不可避な人材だ。こういう人々がどうやって気持ちよく生きられるかについて筆者は常に考えている。

解決策の試案


一つ言えるのは、人生は圧倒的に不平等で、不合理であるから、いくら女性と異なり男性の方が日本社会で「まともに」生きるためには後天的努力が多分に必要であるとしても、自ら努力を開始し無い限り進まないというのは、自らの体験からも言えることである。コンフォートゾーンから抜け出し、新しい視点で人生や日々の生活を見つめ直さない限り、新しい生活・人生は見えてこない。たとえ男性の人生が労働と社会的地位獲得競争に晒されていても、一度きりの人生なのだから、そうした枠組みから自分はポンと降りても良い訳だ。良いか悪いかは自分で決めるだけだ。従来女性の方が家庭に縛られ、子供に縛られ、自由な暮らしができないと思われていたが、家事は自動化AI化が進み、負担減少、育児も3年、いや5年あれば負担は減少してゆく。子供も持つも持たないも自由、結婚するのもしないのも自由、こんな時代に、向いていないことをしないということがまずすべてに先立つのではないか。社会に適合できないままでも生きられる時代に近づいてきているものの、それは年々閉塞する日本社会にはもう存在しないのかもしれない。令和男性2.0は『女性並みに』性別バフがなくても、もはや女性のように自由に生きるべきなのである。。。

※表紙はAIにより筆者作成


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