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中高生からの人文学 その9


4-2. 会社で人文学

4-2-1. 会社における問い

学問において最も重要なことは「適切な問いを立てること」だと先ほど説明しました。これは何も学問だけに限らず、ビジネスでも同様です。むしろ利益を求めるビジネスだからこそ、より適切な問い(=解くことによって会社に利益がもたらされるようなもの)を立てる必要があるわけです。

大きな会社でお金が十分にあるところは、すぐには利益にならなさそうな問いを研究する部門に十分なお金をつぎ込むことができるのですが(家電メーカーや食品メーカーなどを想像してもらえると良いと思います)、そんな会社ばかりでもないのでどうしても問いとその解決による利益とは切り離して考えることは難しいのが一般的だと思います。

いかにしてお金になりそうな問いを立てるか、そしてそれを解決するかが非常に重要です。裏返しにすればお金にならない問いはいくら立てても仕方ありませんが、こういった問いの多いこと多いこと。

また利益を求める会社同士が見据えている方向性が異なっていることは言わずもがな、もう少し小さなスケールで言えば同じ会社の部署同士のモノの見え方が全く異なることはしばしば発生することです。

自社の製品を売り込み、ときに仕事を外から持ってくる「営業」という仕事と、自社の製品やお客さんが求める製品の開発を行う「エンジニア」はしばしば対立します。お客さんの求めるものをなるべく早く・安く提供したいという営業の人たちと、実際に時間をかけて開発を行うエンジニアはしばしば対立します。

同じような製品を開発している他社に負けないように営業の人たちは多少値下げをしたり提供までの時間を短くしたりすることで仕事をもってきますが、実際に開発する立場からすれば無茶苦茶な締め切りを設定されていてうんざりしてしまう。

中高生のみなさんにも分かりやすいように誇張して書いている部分はありますが、どの会社も他人事ではないはずです。実際に手を動かす立場からすれば無理な締め切りは困るが、仕事を取ってくる立場としてはなるべく早くお客さんの要望に答えたい。一見すると対立は避けられないように思います。その際にジンブン的な態度というのは非常に役に立つはずです。

4-2-2. 「会社」というフィルター

私たちは何かしらのフィルターをかけて生活していますが、それは会社でも同じことです。毎日顔を出し(という言い方もリモートワークが中心になっている人にとっては懐かしいものになっているかもしれませんね)、同じ人と接していく内に知らず知らずフィルターの色が会社の色に染まっていってしまっているはずです。

それは例えば自分の会社の業界(会社を扱っている内容で分類したもの、金融やマスコミなどが例としてあげられます)における立ち位置を把握したり、競い合っている他の会社や業界の動きを把握したりするためのフィルターといったポジティブなイメージを抱かせるものだけでなく、仲間内でしか通じないような業界用語を身につけていくようなネガティブなことも含まれます。

そうしたフィルターは本来会社にいる間だけ身につければいいものですが、日常の気を抜いた瞬間にフィルターがチラッと顔をだすわけです。デザイナーが街中にあるポスターのデザインが気になってしまうのはいい例かもしれません。

これをしばしば「職業病」とも呼んだりするわけですが、病気と書くだけあって事実なかなか根深い問題かもしれません。組織においてこうした一定のフィルターを身につけることは、コミュニケーションにかかるコストを下げる上で欠かせないものであることは間違いありません。エンジニアなのにIT用語がキチンと伝わらないなど、エンジニアとして当然身につけておくべきことができないと、一緒に何か作業をするのでさえ一苦労です。

フィルターはコミュニケーションを楽に取ることを促したり、仕事を効率的に行うなどしばしば有益に働くのですが、ひと昔前のように自分の仕事だけをこなしていればなんとかなるような時代は終わりを告げ、エンジニアといえど営業や経理(お金を扱う仕事だと思ってください)の仕事についてもある程度の理解をしなければ協力して仕事を進めていくことが難しくなっている時代においては、先ほどの例のように非常に迷惑な存在でもあるわけです。そんな「病気」ですが、もののたとえと言えども病気には治療が不可欠です。この治療がジンブン的な態度だというわけなんです。

4-2-3. 治療のためのジンブン

ジンブン的な態度は先ほど説明したように、他人のフィルターを一時的に装着する行為です。営業の人たちがエンジニアの仕事をすることはできませんし、その逆もまたしかりです。

ですが、お互いがどういったフィルターを通じて仕事というものに取り組んでいるのかを理解することはできるはずです。異なる立場の仕事において何を優先して取り組んでいるのかはフィルターの一例です。それは利益をあげることなのかもしれませんし、はたまた素晴らしい性能の製品を作り上げることかもしれません。

いずれにせよそうしたフィルターをお互いに多少なりとも身につけることによって、協力して仕事を進めていくための基礎となるかもしれません。エンジニアの気持ちが分かる営業、営業の気持ちが分かるエンジニア、どちらも求められる場面は多いけれどまだまだその数は多くないように思います。

日本ではまだまだ利活用が進んでいないビッグデータなども ーそのものがフィルターとは言いづらいのですがー 私たちのフィルターに関係しています。データはそれだけではただの数字の集まりであることに間違いなく、解釈する立場と切り離して存在するわけではありません。

ですが、データそのものや分析して出てきた結果というものは自分が知らない間に身につけてしまったフィルターを外す役割を果たしてくれます。データの利活用が下手と言われる際によく言われるのは、自分のフィルターを外そうともせずにデータを眺めることです。

例えば皆さんがスマホゲームの開発者だとします。スマホゲームの売り上げを上げるには漫画やアニメとコラボすることが一番だ!という先入観があると、過去のコラボで売り上げが上がったデータだけを集めて次もコラボしようと判断するかもしれません。

ですが、その判断は正しいのでしょうか。確かにデータだけ見るとコラボのときに売り上げが上がっているかもしれませんが、ちょっと待ってください。それは本当にコラボの影響でしょうか。

コラボの開始時期や機能のアップデートなどの内部要因や、人気YouTuberの紹介やボーナスの時期と重なったなどの外部要因が原因ではないでしょうか。

4-2-4. フィルターを外す

データは「真実」を語っているかもしれないのに、身につけたフィルターを外さなかったが故に間違った判断をしてしまうことは、大袈裟な表現ではなく世界中あちこちの会社で行われています。データはフィルターを外すことを私たちに求めてきます。せっかくのデータの声にちゃんと耳を傾けてみませんか?

気がつかないうちに染まっていくフィルターを外すことは非常に難しいです。お客さんとしてWebサイトを利用していたときは使いづらいデザインだなぁなんて文句を言っていたのに、いざ自分がWebサイトを開発するとなると、とたんに使いづらさが見えなくなってしまうなんていうことも良くある話です。ちなみにこの話は私の実話です。

ですが自分ではない誰かからお金をもらうことで成り立つビジネスの世界において、そのお金を払ってくれる人の視点を無視することは、自殺行為に等しいでしょう。

食器を作っている会社があるとして、買ってくれたお客さんは自社の製品のどこを気に入ってくれているんだろうか、そもそも食器に何を求めているんだろうか、そうしたお客さん視点に立つことが何よりも重要です。

時にはお客さんが気づいてすらいないことを先読みする必要があるわけで、そうなるとお客さんのフィルターを作っていることになります。お客さんのフィルターを見通し、その「メガネにかなう」モノを提供するといったような「モノが売れるシステムを作ること」を、ビジネスの世界では「マーケティング」と言ったりするわけですが、それについては別の本に詳しい説明を譲りたいと思います。いずれにせよビジネスにおいても、他人のフィルターを身につけるジンブン的態度が必要不可欠だという理由は分かっていただけたと思います。

4-3. 日常で人文学

4-3-1. 映画を楽しむ

他にも人文学をすることで、普段プレイしているゲームや、読んでいる漫画がさらに面白くなるかもしれません。ここまで読んでくれた人なら、もう分かってくれていると思いますが、ゲームや漫画自体が「人文学」によって変わるわけではありません。人文学をすることによって変わるのは皆さん自身です。そして変わった自分自身がゲームや漫画にふれることによって面白く感じるのです。

私は映画が大好きなのですが、好きな映画を何度も繰り返し観たりします。最初はストーリーを楽しみ、二回目はあるキャラクターに注目して、次は音楽に着目して、といったように異なる視点から、この作品はどんな風に捉えることができるのかを細かく確認しながら映画を観ることは、複数のフィルターを身に着けようとしている次点で既に「人文学」的であると言えるかもしれません。

例えば私が大好きな映画にジョージ・クルーニーやブラッド・ピットが出演する『オーシャンズ11』という2001年に公開された作品があります。この作品はジョージ・クルーニー演じるダニエル・オーシャンが仲間を集めてカジノの金庫破りをするという内容で、ストーリーは至極シンプルなのに私を何年も捉えて放さない映画です。

もちろんストーリーそれだけでもケイパー映画(強盗映画)として二転三転するドキドキハラハラな展開なのですが、オーシャンと、ブラッド・ピット演じるラスティとの関係性に着目することもできます。ただの友人を越えたパートナーとしてともに大犯罪を計画し、言葉を交わさずに相手の真意を汲み取り、ときにぶつかるその様は完全にバディもの映画のそれです。

ラスティを強盗に誘うシーンではラスティが刺激のない生活を送っていることを、オーシャンは見越して「俺が捕まっている間暇だっただろう?」と言わんばかりの態度でした。また、ほぼメンバーが揃った段階でラスティが後一人加えたいと思っていることを態度から察するオーシャンなど、オーシャンズの軸となる二人の関係性は非常に強いものがあります。

一方でザ・敵役であるカジノ王のテリー・ベネディクトは、冷徹無比で非の打ち所がない人物として描かれており、冒頭で刑務所にぶちこまれていたオーシャンとは真反対かのように描かれています。ですが、ある登場人物にお熱であることから始まり非常に似たポイントも多いのです。

作中でオーシャンはフランスの印象派の画家であるモネとマネの区別がついていない他(名前は似ていますが、作品を観れば間違えることなどありえないことはすぐに分かります)、仮面の強奪を刑務所に入れられたなど美術品を盗む対象としてしか見ていないなど、彼は俗物的な人物です。

一方のテリーもあるシーンで絵を前にしてお熱な相手に

『You like it ?(この絵が好き?)』

と尋ねられて

『I like that you like it.(君が好きなら僕も好きさ)』

と答えます。

少し前のショットではさも分かっているかのように絵を眺めているのですが、結局彼も自分がお熱な相手が好きな絵だから好きと言っているだけで、中身はオーシャンと全く同じなのです。

このように単純な敵味方だと反対側に位置付けられてしまう登場人物が、細かく見ていくと実は同じグループにくくられていたということは良くあることです。同じグループに二人を入れて観てみると、オーシャンズ11にはまだまだ多くの発見があります。細かくは触れませんが、さらに一歩踏み込めば、どうして二人はこのような共通点をもった人物として描かれているのかと考えることも可能です。そこから作品を面白くする緒は広がっていくのです。

またこの作品は実は過去の映画のリメイクとなっています。リメイク前は『オーシャンと十一人の仲間』という1960年の映画でした。リメイク前後でシナリオにどのような変化があるのか、雰囲気にどんな違いがあるのか、配役にどのような意図があるのか、見比べてみると新しい発見があります。

その変化はどういった印象を皆さんに抱かせるのか、どういう意図があって違いが生み出されているのかまで考えられれば、もう立派に一つの人文学の研究です。ここまで述べてきたことは文学作品を研究するテクニックである「批評」にあたります。

本格的な研究の入り口の入り口程度の紹介でしかありませんが、人文学は日常から離れたところにあるわけではなく、今さきほど観たドラマや映画、アニメや音楽の歌詞などからも始めることができるのです。詳しくは参考文献にあげた本を読んでもらえると、さらに「批評」というものに興味が湧いてくると思います。

参考文献の本にも書かれている通り、何も考えずに自分の好きなものに触れることと、何度も繰り返して細かいところまで観て「批評」を行うこととの間に優劣があるわけではありません。前者ももちろん立派な鑑賞の仕方の一つです。

一方で「日常で人文学」と題したこの節では、自分を強く前に出して鑑賞することをオススメします。まずは自分が好きで好きでたまらないものを繰り返して鑑賞してみる。気になったことを書き留めて、他の作品と比較したり、出てくる人物や場所について調べてみる、人と意見を交換してみる。

そうした行為を通じて、自分が好きなものをさらに好きになる、好きな理由をきちんと人に説明して作品の好きの輪を大きく広げていくことができるはずです。わざわざ面白くできる武器を使わないのはもったいないですよ。

4-3-2. 言葉を楽しむ

普段私たちが使う言葉にも、もちろん人文学をするためのヒントはたくさん隠れています。例えば私たちは普段何気なく日本語を話していますが、それはどのように身についていくものなのでしょうか。

私も含めて普通は気づいた頃には話せるようになっていたから、英語や第二外国語のように習得途中の状況を人に話すことは難しそうです。ですが、実はどのように身についていくのかを教えてくれる格好の素材が街中に溢れていますし、家によっては家の中にいるかもしれません。そうです、小さい子どもです。

彼らはまさに日本語の習得途中なので、日本語を話せる人からするとおかしな日本語を使ってしまいます。例えば多くの場合「られる」は語尾につけるだけでそのまま「可能」の意味になります。食べるは食べられる、起きるは起きられる、ですね。

ですが、その法則をそのまま他に当てはめてしまう「過剰一般化」が子どもにはしばしば起こります。例えば、「ゲームする」を「ゲームすれる」と言ってしまったり、既に可能の形になっている「読める」を「読められる」と言ってしまうのです。こうした過剰一般化からは、どのようにして過剰一般化を防ぎながら文法を習得することができるかの過程を見てとることができます。

また言葉の意味を本来の意味よりも大きく捉えてしまうことを「過剰拡張」、逆に小さく捉えてしまうことを「過剰縮小」と言います。車を見て「あれはぶーぶーだね」と話していた子どもが、自転車や新幹線など人より速く移動する乗り物を見て「あれもぶーぶー」と言ってしまうのが「過剰拡張」で、自分の家の車だけがぶーぶーだと思っているのが「過剰縮小」となります。

こうした子どもが話している言葉という身近なところから、人が言語を習得する際の癖を読み取ることができるわけですね。私は知りませんが、英語や中国語など外国語でも恐らくこうした過剰一般化や過剰拡張・縮小といった現象があるはずです。興味を持った方は是非自分でも調べてみてくださいね。

このように人文学をするための素材はそこらへんにタダで転がっています。このチャンスを逃さないわけにはいきません。とはいえ、自分のタイミングで人文学のタネを掴み取ればそれでOKです。取り逃がさないようにと言った直後ではありますが、人文学のタネは何度取り逃しても何度でも日常から見つけ直すことができます。こんなことは他の学問ではありえませんね。何にせよ人文学をするコツは、身の回りに転がっているものに触れたときの自分の疑問や感情を大切にすることです。

4-4. どこでも人文学

4-4-1. まずはここから

繰り返しになりますが、人文学を含む学問において最も重要なことの一つは「適切な問いを立てること」です。問いを立てて、それを検証する方法を考えて、実際に試してみる、その繰り返しで学問は成り立っています。

とはいえ普通に生活をしていて問いが興味よりも前にくることはあまりないと思います。つまり、何かに興味をもって初めてそれに対して不思議だなと思う点が出てくるということであり、逆に言えば何かに疑問を抱いている時点であなたはそれに興味があるのです。そして人文学はみなさんが人の営みについて考えたこと、そのものを他のどの学問よりも大切にする分野です。

とはいえいきなり人文学をしてみよう!というと大袈裟に聞こえるので、まずは考えたこと・気になったことを言葉に出してみることをオススメします。あなただけの疑問や気になったこと、それが人文学の入り口になります。

「気になるのは自分だけか、どうでもいいか」と簡単に捨ててしまわず、その疑問を大切にしてください。「この言葉はいつから使われるようになったのだろう?」「どうしてこの行動は禁止されているのだろう」。

そして是非ちょっとスマホで調べてみたり、親しい人に話してみたりすると、自分の知らなかったことが分かるかもしれませんし、実は理由についてまだ誰も適切な説明を与えることができていなかったり、理解できていなかったことが判明するかもしれません。本当に些細なきっかけが大きな発見やアイデアの糸口になります。

おすすめは考えたことや気になったことをスマホや小さな手帳にひとまず記録しておいて、あとで時間があるときに見返すことです。無理に毎日の生活に人文学を取り入れるのではなく、余裕があるときに自分の考えや疑問を調べてみる、もし既に答えがあれば頭の中に留めたり、そこからさらに疑問を繋げていったりすると段々とどこでも人文学ができるようになっていくでしょう。

また私たちが暮らしている社会には数えきれないほどの問題があります。国の借金が増え続けている、若年人口が減少している、マイノリティに対する配慮が足りない、貧困の問題が深刻になっている。そして私が学んでいた土木の分野でもダムや橋などのインフラストラクチャーの老朽化の問題が挙げられるなど、問題を数えていけば時間がいくらあっても足りません。

そうやって山積みになっている問題をみなさん一人一人に抱え込んでほしい、解決するために何か行動して欲しい、と思うのは勝手ですが実際に行うのは現実的ではありません。そんなときに人文学のジブンごとにする態度が役に立つのです。

山積みの問題に対して何か行動するのは時間やお金などコストがかかるし、全員ができるわけではありません。でもニュースや事件や問題や身の回りで起こったことを、ジブンごとにして考えようとしてみることは誰にでも出来るのではないでしょうか。

レジ袋のニュースをみたら、実際にどれくらいのプラスチックを使っているのか考えてみたり、プラスチック消費量の何%くらいがレジ袋なのか調べてみたり、有料化する意図について推測してみたり、自分だけでも色々考えることができます。

すぐに何か変わるわけではないかもしれないけれど、一度自分の世界に引きつけて考えようとしたその態度が自分の中で小さな違和感に変わっていきます。そうして生まれた自分の中の違和感が次第に実際のこの社会を変えていきます。その違和感がまた別の出来事と出会った時に自分の行動を変えるきっかけになるかもしれないですし、その違和感を誰かと共有してみたらその人も同じことを考えているかもしれません。

いざというときに考えられる力を持つこと、問題に実際に取り組んでいる人たちの影の応援者になること、そして自分が声をあげて変えようとすることに繋がっていきます。人文学は科学技術のように大きなインパクトを分かりやすい形で社会にもたらすことはできないけれど、ジブンごとの態度を通じて草の根から社会を変えていけるはずです。


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