中高生からの人文学 その5
2-3. 人文学のディシプリン
2-3-1. 歴史学のディシプリン
さていよいよ本題です。人文学のディシプリンは何でしょうか。歴史・哲学・言語・文学のそれぞれについて当てはまるような、そんな大きなディシプリンが本当にあるのでしょうか。
例えば歴史学は「今この時代を生きる立場から、史料によって、人の過去に」取り組む学問分野です。歴史学はその名の通り歴史、つまり過去を研究することになります。史料という言葉は少し聞き慣れないかもしれません。
国立国会図書館のHPによれば史料とは
と説明されます。
紙に書かれた文献史料は行政の公式資料や官僚の日記といった政治にまつわるものから、書籍・雑誌・新聞などの出版され広く出回ったもの、個人間でやり取りされた手紙などバラエティ豊かです。
よく偉人の博物館では過去にやり取りした手紙などが公開されていますが、あぁいったものも史料になるわけです。まさか書いた本人たちも後々まで遺された挙げ句、大切に保管され研究されるとは夢にも思わなかったでしょう。私たちも気をつけないと自分が適当に書き起こしたメモが研究対象にされてしまうかもしれませんね。
しかしながら史料に書かれたこと、表されている内容、その実体について見たそのままを信じることはできません。人が何かを書き、何かを後世に遺そうとしたとき、そこには必ず意図や理由があります。
例えば主君の功績を称えるために臣下が少し盛って日記に日々の出来事を記載しているかもしれません。実際の建物は既に形が変化しているにも関わらず、昔を懐かしむ気持ちや理想の建物へのあこがれから、かつての形で画家が建物の絵を描いたかもしれません。それ以外にもかつてはコピー機のような便利なものはなかったので、本をコピーしようと思ったら全てを手書きで写すしかありませんでした。
そうした中で図らずしも書き間違えたものがそのまま後世に伝えられた可能性もあります。したがって「史料によって」というフレーズには、史料の信憑性を検証して、といったニュアンスが込められます(これを専門用語で「史料批判」と呼び、歴史学における最も重要な作業です)。
そのため歴史学では必然的に外国語の習得を求められることとなります。研究するにあたっての生命線と言っても過言ではないでしょう。史料に書かれていること・表されている内容は本当に正しいのか、もし異なるのであればどうして今の形で後世に遺されたのかを理解していくためには、外国語、とくに昔の外国語を読む必要があります。
一番馴染みの深い英語ですら、シェイクスピアの生きていた時代と今とは異なっています。言語が異なれば考え方も異なると捉えるのが自然で、読めることがすなわち理解できることに繋がるわけではないのですが、そこに言語や翻訳の面白さは潜んでいると考えられます。いずれにせよ今の自分が日常会話では決して使わないような言語を通して過去の人間に迫っていきます。
そのようにして今この時代を生きる私たちとは全く異なった社会の中で生活し、異なる言語を話し、異なる考え方・感じ方をしていた人々と、彼らが作り出した社会制度や文化を解き明かしていく試みが歴史学だというわけです。
2-3-2. 哲学のディシプリン
別の例をあげてみましょう。哲学は「自分自身の疑問を出発点にして、過去の哲学者の考えによって、人の考えに」取り組む学問分野です。
哲学は「哲学的」という言葉に代表されるように、非常に抽象的な議論を行うようなイメージを持っているかもしれません。またプラトンやカントといった過去の偉大な哲学者の思想を研究することにばかり着目されているような気がします。ですが哲学において大切にされていることは、自分自身の疑問から出発し、その疑問を解き明かすための考え方を学ぶことです。
私たちは日々生きている中で様々な疑問を抱えながら生きています。その多くの疑問は浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返しますが、その中の一部が自分を捉えて離さないことがあります。「どうして人は生きているのか」「なぜ人は憎み合うのか」「世界とは何なのか」。
そうした疑問を抱えている中で、昔の哲学者が書いた本を読んでいると、直接回答を与えずとも、自分の疑問と本に書かれている内容に何か共通したものを感じることがあります。すると哲学者について、彼らがなぜそんな内容の本を書こうと思ったのか、どういった疑問を抱えていたのか、ある言葉に徹底的にこだわるのはどうしてなのかと次々に知りたいことが増えていきます。
自分の疑問から哲学者の疑問について考えてみる、そして哲学者の疑問から自分の疑問を振り返ってみる。このように自分の疑問と哲学者の疑問とを往復することによって、自分の疑問が少しずつ広がっていくとともに形を変えていきます。それを「問いを深めていく」という言い方をしたりもしますが、このようにして哲学の終わりなき思考の旅が続くわけです。
こういった自分のモヤモヤから始まる一連の流れこそが哲学の作業であり、哲学はモヤモヤに言葉によって形を与え、ときに言い換え、ときに変化させていく営みです。残念ながら疑問やモヤモヤにはっきりとした答えが与えられて、解決するようなことは決してありませんし、誰もが納得して考えることをやめてしまう答えが見つかることも絶対にありません。
つまり哲学では答えを与えることそのものより、他の哲学者の考え方に迫り、自分の疑問に答えを与えようと努力する過程で、考え方を学んでいくことにこそ重きが置かれており、「答え」らしきものはあくまでその副産物でしかありません。こういった哲学の性格から考えるに、哲学者が抽象的な議論を行うというイメージは間違っていませんが、徹底的に考えることが好きというほうがより正しいかもしれません。
他にも人文学には様々な分野があります。それらがどういったことを目的として研究を進めているのかについては是非みなさん自身で調べてもらえると嬉しいです。
2-3-3. 人文学のディシプリン
以上をまとめると、人文学のディシプリンというのは「人としての自分の立場から、時代や対象に応じた視点を使って、人の営みを見る」と言えるでしょう。ただまとめた表現では少し分かりづらいので、それぞれを分解して考えてみたいと思います。
まず「人としての自分の立場から」です。これは至ってシンプルで、我々ひとりひとりが、唯一無二の人であることが人文学においては非常に重要だということです。もしもみなさんが人ではない何か、例えばロボットだと考えてみましょう。ロボットが人の歴史について考えたとしても、それは人文学とは言えません。なぜならロボットは人としての性質を持ち合わせていないからです。
人としての性質が何かと言われれば非常に難しいですが、自分を取り巻く「立場・考え方・状況」から逃れられないというのは一つ大きな性質でしょう。つまり誰もが何かしらの環境や文化の下に育っているため、その環境や文化の影響から逃れることが難しいということです。「難しい」というだけで、「できない」わけではないところに注意が必要ですが、後ほど詳しく説明します。
取り巻く「立場・考え方・状況」の怖く・面白いところは、無意識のうちに自分が囚われてしまっていることです。どれだけ優秀な人であっても逃れることは難しく、気を抜くとすぐに偏った考え方をしてしまうということは多くの出来事が示す通りです。そのように常に絶対的な考え方をもたない「脆弱な」人がコンテクストを越えた真実の探求に取り組むからこそ、人文学足り得るのです。同時に相反することを言うようですが、自分の立場や考え方などを一切抜き去った人文学の取り組みというのも非常につまらないものになってしまいます。
次に「時代や対象に応じた視点をもって」です。この場合の「視点」は道具や手段と言い換えていただいても構いません。「対象に応じた」はもう少し分かりやすいですね。例えば同じ歴史学でも考古学であれば土器や埴輪などの遺物や、建物や跡などの遺構を用いますし、美術史学であれば絵画や建築などのビジュアルイメージを用います。
最後に「人の営み」です。「学問」のカテゴリの違いはディシプリンの中でもこの「何を見るのか」という部分によって主に区別されていることは、前の節でお話したとおりです。生物を扱うなら生物学ですし、経済を扱うなら経済学です。そして歴史や哲学などの人の営みを扱えば人文学となります。
2-3-4.ディシプリンの変化
こういったディシプリンについて一つ大切なポイントを抑えておいてもらう必要があります。それはディシプリンも変化するということです。
先程もお伝えしたとおり、歴史学において重要なのは一次史料(資料ではありません)にしっかりとあたり、その史料を読み込むことです。有名な政治家が記した日記や当時の学生が読んでいた雑誌から、穀物の市場価格を記した帳簿まで幅広くその対象となります。そうした史料から彼らが生きていた時代の声を復元することが可能となるわけです。
ですが、インターネットが登場した1980・90年代以降、時代の声を復元することはかなり困難な作業となります。それはインターネットが幅広く利用されることによって時代の声の多くがネット上に残されることになり、一つ一つを正確に突き詰めていくことがかなり困難、というよりはほぼ不可能になっているためです。
逆に明治時代に発行されていた雑誌は、研究対象によっては現実的な数をあたることで当時の声を「拾い尽くす」ことが可能となります。なんとなく想像がつくと思いますが、史料の数は一般的には時代を遡れば遡るほど減っていきます。それは主に紙や木に書かれたものが今にいたるまでの間に廃棄されたり、災害で失われたり、文字が読めなくなったりするためです。
今はまだインターネットが誕生した後の時代を歴史学の対象とすることは少ないのですが、100年後にどのように歴史学がこの史料に溢れかえった時代を扱っていくのかは全く未知数です。そのときインターネット上の声を利用するような新たな歴史学のディシプリンが生まれるのかもしれませんし、全く別の学問が誕生するかもしれません。
いずれにせよ人文学のディシプリンは時代が進むにつれて変わっていきます。そのディシプリンを探し出すのは次の世代に人文学に触れる私たちです。
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