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手話表現ワークショップに初参加。親子で感じたコミュニケーションの可能性

「10円パン」なのに、500円もするのかよ。
10円パンというものが、行列ができるほどの人気らしい。
娘はインスタグラムで見たらしく、食べてみたいという。
それにしても、高い。

しかし、娘を渋谷に連れ出すいい口実ができた。私には、一緒に行きたいワークショップがあった。
タイトルは「手のコトバ」。会場は東京都渋谷公園通りギャラリー

ワークショップの内容はいたってシンプルで、声による言語を使わずに知らない人とコミュニケーションをとってみる、というものだった。
アート作品をみんなで鑑賞して、感想を表現したり、誰かの表現を受け止めたりする。そんな歯がゆい試行錯誤を、手話のエッセンスを応用して楽しむ、という趣向。
しかも、講師はろう者の俳優さん。手話と演劇を組み合わせたスタイルは、親子で飛び込む未知の体験を予感させた。

いざ会場につくと、早々にワークショップが始まった。参加者は、だいたい15人くらいだったろうか。思いのほか賑やかだった。
一人で参加している大人たち、友人連れの学生さんたち。われわれと同じような家族もいて、ひと安心。娘が自然に参加できたのは、にこやかで柔らかい雰囲気のおかげだった。

ウォームアップは、みんなが手のひらをテーブルにのせることから始まった。俳優であり講師であるエノさんの指遊びをまねる。
ひとさし指で、手がピンと立ち上がる。二本指でテクテク歩き出す。三本指で滑り出し、優雅なスケート・ラインを描く。
次第に動きが大きくなり、参加者同士の距離が縮まるにつれ、スクランブル交差点のような不思議な調和を感じた。
小指を足して四本指。今度はピアノを弾くように、お互いの指先を探しては、くすぐりあう。娘はギャーキャハハと笑っていた。
躍動を得た指は五本揃って翼となり、小鳥たちがテーブルから飛び立っていった。

伸ばした手の先にある、会話になる以前の対話。たがいの頭に浮んでいるものは違うかもしれないけれど、同じ何かを共有していることだけは分かる。
温かい余韻が手のひらや指先に残った。なるほど。これは確かにアイスブレイク。

参加者のおっかなびっくりがほぐれたところで、隣で開催されていたアール・ブリュットの作品展に移動した。
ここで印象に残ったり、お気に入りになった作品の魅力について、言葉を使わずに表現することになる。

この作品たちが、素晴らしかった。
剥き出しの創作意欲と強烈なオリジナリティは、鑑賞というよりも遭遇だった。娘と私は瞬間的にロックされた。作品の波長が強い分、こちらの心の周波数に合うものがすぐに目に入る。引き寄せられる感覚だった。

娘が選んだのは、アサヒスーパードライや麒麟一番搾りの空き缶で作られたオブジェだった。電飾がチカチカし、空き缶の破片が倍にして照り返す。煌びやかなほどの異次元感。エレクトリカルな熊手だ。ちなみにその隣の作品は「俺が飲まなければ誰が飲む」と銘打たれていた。ドスンとくる。

私は、精細な鳥の絵画を選んだ。おそらく水彩画。
羽や葉が細密に描きこまれてリアルなのに、立体感のないイラストにも見える。アングルや光の表現も独特で、現実世界にはありえない空間が生まれていた。美しい不可思議。
というのは後付けで、音声言語を使わずに説明するなら、鳥がいいだろうという目論みだった。娘がエレクトリカル熊手をどう表現するつもりなのか、見ものだわい、と。

そしていよいよ、このワークショップのメインプログラム。
参加者が自身の選んだ作品を紹介する、あるいは感想を伝える。音による言語を使わずに、だ。
音声言語を使わない。逆に言えば、それ以外ならなんでも使えるということでもある。
手や腕はもちろん、顔の表情や目線。上半身、下半身。なんなら寝転がったってかまわいない。
使えるものは身体ばかりではなく、部屋の柱やドアの向こうなど空間を利用する。あるいは、ゆっくり動く・すばやく動くなど時間を活かしてもいい。匂いだって使ってよかっただろうし、相手に触れてもよかっただろう。

エノさんの指名にそって、みんなが発表していく。
猫になる人。思い悩んだ顔を作る人。どこかに向かって歩き出す人。腕をぐるぐる回す人。寝転ぶ人。
思い思いのメッセージを、体の動きにのせて。音声言語を使えないという不自由と、その外に広がる大きな可能性をともに感じながら。
受け取るこちらもまた、もどかしさを感じながら、前のめりに心の耳を傾けている。

これ。これなのだ。私がこのワークショップに来たかった理由は。娘と体験したかったものは。
おしゃべりは、口から出て耳に入る音や、読み書く文字に限らない。それ以外の膨大な情報で、コミュニケーションは成立している。
その本質を見失うと、視覚と聴覚に限定したやりとりに囚われてしまう。それはとりもなおさず、人間への理解まで限定することになる。

でも、そんなことを日常生活で意識することは皆無だ。最近デジタルデバイスを使いこなすようになった娘にとっては、なおさらだ。だからこそ、このワークショプにきたのだ。

私の番がきた。私は、全力で鳥になりきった。フローリングの虫をついばみ、椅子に卵を産み落とし、会議室の大空を羽ばたいた。
作品の説明や感想というよりは、つたないジェスチャーにすぎなかった。それもドバト程度のものだったろう。それはわかってる。でも、お父さんはベストを尽くした。
発表を終え、娘をチラと見ると、笑ってくれていた。宴会芸を見て笑う人の笑顔だった。

さぁ娘よ。君の出番だ。6歳児のすべてを使ってエレクトリカル熊手を表現してみたまえ。

プルプルプル。

「え?」

ブルブルブルブルブルブルブルブルブルブルブルブル。

娘は、もげるほど首を横にふっていた。照れまくり、断固拒否。

「マジで?」

こんなに果敢な父ちゃんから生まれたのに?”ワークショップの恥はかき捨て”だぞ?
娘の手をひこうとする私を、エノさんはやんわりと止めてくれた。
無理させなくていいですよ、と。
考えてみれば、そりゃそうだ。娘本人が来たいと言ったわけではない。ノラないものはノラない。それが正しい。ごめんなさい。父ちゃん、調子にのってしまった。

自分のダメ親具合にバツの悪さを感じているうちに、ワークショップはおひらきに。われわれはアンケートをしたためた。
いろいろと書き込まれた、娘のフリーコメント。覗き見はするまい。それでも「楽しかったです」の一文が目に入り、ホッと胸を撫で下ろす。
楽しいの意味が、たぶん親心とは違っていただろうけれど。楽しかったんならいいか。

帰り道。ドンキホーテで10円パンの行列に並びながら、思い出したことがあった。
かつて、とある人から言われたことだった。
「これからは手話なんて学んでも意味ないと思うよ。テクノロジーで解決できちゃう」
私が、娘と手話のまねごとを始めた、と話した時だった。
相手は福祉の業界ではかなりの有名人。自身のブランドをもち、自治体とも協業し、大規模なイベントも手掛けている人だった。メディアにも頻繁に取り上げられ、ときの人だった。

聴者の史観。今なら、それは大間違いだと分かる。
手話は独立した言語だ。どれだけテクノロジーが進歩しても、いや、進歩するからこそ、価値が深まるものがある。きっとそれを文化というのだろう。

10円パンを食べながら、娘にきいた。
「おもしろかった?」
「うん。楽しかった」
「どんなことが?」
娘は、左手の甲から右の手刀をはね上げながら、言った。
「私が手でありがとうってやったら、おじさんもありがとうって返してくれた。それが嬉しかった」
うん。その体験がきっと、いつか君を羽ばたかせてくれる。そう父ちゃん信じてる。
10円パンは、そこそこ美味しかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。よかったらこちらの記事もぜひ。


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