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元創価学会少年が思い出す、池田大作氏の自宅に招かれた遠い記憶

池田大作氏が亡くなった。
氏に恨みつらみはないので、敬称を使うことにする。

訃報に触れて、氏の自宅に招かれたことを思い出した。
私は、小学生の高学年だった。
もう30年以上も前のこと。その間に棄教もしているから、かなり霞んだ記憶だが。

「今度、先生のお宅にお邪魔できるって」
母親は海外旅行でも当選したかのように言った。我が家で先生といえば、担任ではなく池田氏だった。

「先生のお宅は、たしか大田区」
祖母が東北訛りで、そう呟いていた気がする。氏の家が、まだ出身地にあると思い込んでいたのか。あるいは、本当に大田区にあったのか。

いざ到着すると、質素というか素朴というか。やや年季は入っていたけれど、当時はまだ多く残っていた日本民家の一軒だった。
「ばあちゃんちみたい」
そう思ったことを覚えている。
祖父母は「人生でもっとも高額な買い物はカローラ」という、決して裕福とはいえない職人で、狭い古平家に住んでいた。それより池田氏の家は広かったはずなのに、私には似て見えたのだった。失礼な話だ。
「立場上、豪邸に住むわけにはいかないのかもしれない」
そんなことも思った。私が、大人の思惑を勘繰る子どもだったことは間違いない。が、それにしたって生意気。重ね重ね失礼な話だ。

家の中は、まったく覚えていない。おそらく子ども心に焼き付くようなものはなかったのだろう。
池田氏本人も、不在だった。

しかし創価学会の男子部だかなんだか、私を引率してきた男性が、
「これは先生から君たちに」
と、何かを手渡してきた。

小さなプレゼントだった。
スロットマシンのミニチュア。消しゴムくらいの小ささで、ひとさし指でバーを押し下げると、ルーレットがくるくる回転するオモチャ。
私の感想は
「これ持ってる」
だった。お子様ランチのオマケだったり縁日の景品だったりで、すでに手に入れていたのだろう。
たしか他にもお菓子を持たせてもらった気がする。それも駄菓子だったはずだ。

ここでも、セコイとかケチなどとは思うことなく。小学生である自分へも、節度をもって接していると感じた。まぁそうだよね、と。
世間から白い目で見られがちな団体として、身内に対してすら厳正であろうとする姿勢。社会性のある、まともな大人がそこにいた。

一方で、悲しみも込み上げてきた。
この人たちとは打って変わり、なぜうちの家族は、教義や創価学会の価値観だけで生きていこうとするのか。
なぜ、それでやっていけると信じ込めるのか。
そしてなぜ、それを私に強制するのか。

当時からうすうす気づいていた。
家族たちは、自分たちのやり方では世間を渡っていけないと知っている。しかし、自分たちで解決する気はない。
私をアテにしていた。だから今のうちから、NOと言えない子どもに。
「この前、結太が日蓮大聖人様の生まれ変わりだった、っていう夢を見たよ」
病的な他力本願。拝めるものは子でも拝む。そういう人たちだった。

憂鬱でもあった。
帰宅したら、鼻高々になっている祖父母や母親に対して、自分も誇らしげに振る舞わないといけない。縁日の景品と駄菓子を小道具に、どう笑顔をつくって芝居を打てというのだ。
そんなことを考えながら池田宅をあとにし、誰かの車に乗せられてまたどこかへ向かった。

これが、記憶の一部始終だ。おそらく、かなりの記憶の上書きも入っているだろうが。

私は、創価学会の三世だった。
祖父母、母親、そして私。母子家庭の長男は、未来を嘱望される少年学会員だった。
母子家庭という呼び名よりも、片親といったほうが通りが良かった時代。貧乏人の武器は、苦労話しかない。美談に仕立て上げられ、子どもは演じさせられる。
私は導師として数百人の小中学生を先導し、大会館の先頭でお経をあげたり、スピーチさせられたりしていた。

しかし成長にともない、棄教した。信仰を、家族ごと棄てた。
家族たちは私に執着し、成長するにつれ経済的・精神的・身体的な搾取はエスカレートした。結婚後も生活は脅かされ、妻と妻の実家にもいやがらせを始めたのだった。

母親は
「私の子育ては間違っていた」
と言い捨てた。計画失敗。自分の思うようにならないと分かったら、子でも呪う。今となれば、それが虐待家庭によくある風景だとは、のちのち知った。
私にとって教義や創価学会という組織は、人を幸せにするものではなかった。
「もう限界」
すべてを断ち切るしかなかった。

池田氏の死去に際して、考える。新興宗教って何だろう。

それで救われる人がいる。確かに、いる。
いろいろな境遇の人がいて、精一杯の努力でも乗り越えられない不条理がある。行政や地域、民間団体などの正攻法ではにっちもさっちもいかない、ということも起こる。
そこに、負の多様性と信教の自由が対図となって現れる。

だから、人の弱みに付け込んでいるという見方はあり、もちろんカルトは論外だが、新興宗教には一定の役割と救済効果はあるのだろう。少なくとも、誰にも救いの手を差し伸べてない自分には、その存在を否定する資格はない。

問題は、新興宗教と人との相性なのだと思う。まさに、アルコールやドラッグに例えられる通りだ。

私が知る地域の学会員たちの多くは、まともには見えない人も多々いたが、少なくとも良き人間であろうとはしていたと思う。お世話になったおばちゃんもいた。いうなれば、信仰が健康的だった。

しかし一方では、私の祖父母や母のように、中毒してしまう人もいる。
陶酔し、考えることをやめ、自立そっちのけで自己利益のみをひたすら祈る。教えは正しく、御利益は約束されており、他者の犠牲も恵みとして受け取る。成就すれば感謝の手を合わせ、ダメなら人を呪う。地獄色の天国がそこにある。

しかも中には、新興宗教より他にすがりつくものがない、という人もいるから、一筋縄ではいかない。
ダイバーシティをテーマにしていると、かつて希望を失っていた人や、今も見いだせないでいる人の話を聞くことは多い。藁をも掴もうとする人の話は、重い。
つまり絶望は、意外なほど日常のすぐ隣にある。ましてこんな世情だ。ニュースを見聞きするにつけ、選択肢のない人から順に、さらに生き残る手段を取り上げられている気がする。絶望は、むしろ日常的になりつつあるのではないか。
だから、新興宗教を禁ずれば被害者は減る、という算数にはならないだろう。

新興宗教。絶望。中毒する人、しない人ー
棄教した今、身を持って感じることがある。

「絶望は、私が浸されてきた信仰に似ている」

社会からの断絶、思考の停止、窒息するような救済欲求。そして思わず身を投じたくなる、断崖にも似た重力。
絶望はカタチを変えた信仰だ、とも言えるのかもしれない。

だから私は新興宗教の元中毒者として、絶望にまで絡め取られないでいようと思う。
人生の半分という高い高い授業料を払って、学んだのだ。家族と新興宗教の相性は、最悪だった。
私はその体質を、先天的にも後天的にも受け継いでいる。きっと絶望との相性も似たようなものだろう。

とても怖い。しかも現実を直視するのは、頭がおかしくなりそうだけれど。
再び何かに中毒し、オーバードーズのような人生に戻るのは、まっぴらごめんだ。だからこそこうして、社会の多様性に、可能性に目を向けているのだ。
新興宗教から逃げた経験を活かして、絶望からも逃げ切れた時、ようやく私は救われるのかもしれない。授業料の元はとってやる。

私は元信者だけれど、敗北者ではない。未来は良くなってるって、信じてる。私はまだ、戦っている。

(おわり)


ちなみに。
先に「行政や地域、民間団体などの正攻法ではにっちもさっちもいかない、ということもしばしば起こる」と書いた。

しかし行政は改善を重ねており、民間でも支援者や団体は増え、経験を積んでいる。絶望が身近に迫るのと同じスピードで、世の中はマシになっているとも感じる。新興宗教に中毒していた時には、想像すらできなかった未来だ。

いくつか公的な窓口を下記に。自治体やNPO、ボランティア団体など、他にもたくさんあるので、必要に応じたキーワードで検索を。
最初は公的資金が入っている機関の窓口からアクセスを始めるのがオススメ。ただし、すぐに解決に結びつくとは限らないし、その可能性は高くないと思っていた方がいい。
しかしその後、担当者からの紹介や出会った人のネットワークで、自分に合った支援や団体などに出会うこともある。私は、それが一番安心できると思う。急がば回れ、急いで回れ。

■法テラス相談窓口

■厚生労働省相談窓口

(ほんとにおわり)


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