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よみびとしらず #03 聖子 第五章 新月

 今宵は新月である。

 雅楽寮では、今日は朝早くから演奏会の準備が行われている。
 良成が音頭を取り、演奏者から舞子まで、逐一確認をしている。
「よし、では最初から」
 今度でもう三回目の通し稽古であった。
 演奏者である聖子、明子、犬千代は、招待客である頼明に一番近い場所に陣取っていた。勿論、良成の差配の結果である。
 聖子などは「頼明の顔を一番近くで拝める」と強気の発言をしており、明子と犬千代は「噂の頼明殿を一目見たい」とどこか他人事を決め込んでいた。
 もう一度はじめの曲から奏でるため、皆持ち場にあって姿勢を正す。
「では、はじめ」
 良成の号令で聖子が龍笛を奏で始めた。

 陰陽寮では康親と八郎が演奏会に招かれているため、二人だけが外出の準備をしていた。
 まだ始まるまで時間があるので、少しの間だけでも何か発見があるかもしれないと二人とも書庫にこもっている。
 康親は、今日頼明の顔を見ることになれば丁度二十年ぶりの対面であった。
 二十年前、まだ良成が『音若』と呼ばれていた頃、康親と頼明は二度目の対峙をしている。その時は底なしの頼明の技量に負け、物の怪が代わって頼明を退治してくれたのだった。康親にとっては、ほっとするような情けないような苦い思い出となっている。
 二十年もたてばお互いに趣も変わっていよう。
 少々緊張しているな。
 康親は自嘲する。
 そのまま手にした書をしゅるしゅると巻き、紐で結んで書架に戻し、次の書を手に取った。


 演奏会がはじまる四半時前に、雅楽寮の関係者が現場に入った。
 皆今日の成功を祈って、すれ違う人々と簡単な挨拶を交わし席につく。
 聖子、明子、犬千代の三名も、前の生徒が持ち場につくのを見て自分たちの席についた。
 建物には、屋根からひさしにかけて植物があしらってある。見える部分の柱には、朝から生徒が準備した花が等間隔に並んでいる。
 御簾はすべて上げられ、縁側から室内までの几帳はいっさい取り払われ、客のために敷かれた畳が大空間に広がっている。
 その合間を、まだ準備が済んでいないのであろう生徒が、飾りを持って縫うように走っていく。
 空は快晴である。屋根の下を通り舞台へ、夏の盛りを過ぎた風が吹き抜けてゆく。
 演奏者が皆席に着いたのを見て、良成が声を張り上げる。
「では最初からいこう」
 最後の通し稽古になる。
 聖子は緊張した面持ちで自らの龍笛に口をつけた。


 通し稽古が終わると、徐々に客間の席が埋まりだした。
 頼明と思しき人物はまだ現れない。
 聖子はうしろを振り向き小声で雑談を始めた。
「なんじゃ、頼明はなかなか顔を見せぬのう」
「聖子、本番前に後ろを向くものではない」
 犬千代が慌てて注意する。
「なあに、まだ客もまばらよ。口がきけるのも今のうちじゃ」
「聖子、前を向いて。もう演奏は始まってるわ」
 明子は聖子をぴしりと叱る。
「はいはい、そうじゃの。もう演奏は始まっておる――」
 聖子が前を向いたその時であった。

「お」
 思わず聖子の口から驚きの一音が発せられた。
 聖子の目の前、舞台と縁側の角が向かい合う位置の畳の上に、一人の男が今にも席につこうとしていた。
 思わず聖子は息を止めた。
 頼明じゃ。
 聖子は男の顔を凝視した。
 男は既に老人といって差し支えない年頃であった。顔には濃い皺がいくつも引かれ、喉元の皮膚は垂れ、その挙動は一つ一つが緩慢である。
 男は聖子の前に堂々と着席した。
 そうして男はぴくりとも動かない目の前の女子に視線を向けた。
 聖子と男の視線が合う。
 男は軽く笑みを作ってみせた。
 しかし聖子は動かない。
 その顔に見覚えがあったのである。
 しかしどこで出会ったのか皆目見当もつかない。
 まあよいと、聖子は我に返り男に笑顔を返して向けていた視線を外した。
 すると遠く離れた軒の下に、陰陽寮の二名の顔を見つけた。
 陰陽寮と雅楽寮は縁が深い。ほぼ身内に近いため、あまりいい席ではないのであろう、二名の顔に笑顔はなかった。
 もっとも、康親と八郎の二名は既に頼明が着席している事に驚いているのかもしれなかったが。
 客席は見る間に埋まって行った。
 そうして頃合いを見計らった良成が、はじまりの挨拶に立った。
 演奏会が始まった。


 内々の催しということもあり、演奏会は半時と決まっていた。
 既に一曲目が終わり、聖子たちは二曲目に入ろうとしている。
 予定では二曲目の最中に、客に菓子が配られることになっていた。康親たちは下男を言いくるめ、頼明の後ろを通る際に帯に形代を挟むよう指示してあった。
 その時が刻一刻と近づいていた。
 二曲目が始まり、聖子らの楽器が再び奏でられる。
 それを聞く客人たちは思い思いに感想を言い合い、場内には和やかな雰囲気が満ちている。
 演奏も半分にさしかかった頃、隅の方から両手に菓子の盛られた高坏を持った下男下女がわらわらと現れた。
 頼明に近い奥の方から一つずつ置いていく。
 聖子が長い一音を奏でた時である。
 一人の下男が頼明の背後にまわった。
 その男が一瞬舞台に面を向ける。
 仕込んだか――。
 聖子はその時、目を向けられなかった。
 他の面子はどうであろう、あまり凝視しても怪しまれよう。
 聖子は二曲目を終えて皆が視線をあちらこちらに向ける時を待って、頼明になんとはなく視線を向けた。
 見たところ異変に気付いた様子はない。
 成功か。
 それとも気づかないふりをしているだけかもしれない。
 失敗か。
 陰陽寮の生徒でもない聖子に分かるはずがなかった。
 陰陽寮の生徒でも分からないのかもしれない。
 それとなく陰陽寮の二名に視線を向けるが、席を移動する人々が邪魔をして見ることが出来ない。
 後ろに鎮座する明子と犬千代、更に後方に位置する良成師匠の様子も気にかかる。
 聖子は居ても立っても居られないでいた。
 
 全部で五曲ある曲目のうち、残りの三曲はあっという間に感じられた。
 聖子は相変わらず頼明と面と向かって座っており視線の行方に困っていたし、他の面子の様子は分からないでいた。
 幸いなことに、残りの三曲は舞子との共演であったため皆の視線がそちらへ向けられた。
 そのため聖子は龍笛を奏でながら、ちらちらと頼明の顔を盗み見ることが出来た。
 深い皺が刻まれたその瞳の奥に何を思っているのか、聖子は知りたかった。
 目の前の老人が、本当に都の転覆など企んでいるのか、知りたかった。
 目の前の老人が、本当に稀代の悪党なのだろうか。本当に康親様等とやり合った相手なのだろうか、それが知りたかった。
 あまり凝視していても怪しまれては困る。
 聖子は残りの曲目を奏でることだけに専念することにした。

 連日の稽古のおかげもあり、演奏会は大成功に終わった。
 良成はほっと胸をなでおろした。
 客人を一人一人丁寧に見送ったが、どの客も上機嫌で帰って行った。
 舞台の片づけを終えた生徒を雅楽寮の一室に集め、ねぎらいの言葉をかける。
「みんな、お疲れ様だったねえ」
 生徒の顔には、どれも満面の笑みがたたえられている。
「さあ、今日の午後は稽古を休んでいいからね。好きに過ごすといい」
 その言を受けて、生徒たちはいっせいに歓声を上げた。
 些末な連絡事項だけ伝えると、良成は生徒たちに解散を告げた。
 みな近くの者と連れ立って教室を後にしていく。
 良成を訪ねる者とすれ違って。
「ごめんくださいな」
 教室を覗く者が二名。
「康親殿、八郎君」
 良成は二人の顔を見て笑みを返す。
 部屋には他に聖子、明子、犬千代の三名が残るのみである。
「成功しました。玄庵を訪ねましょう」
 康親は短く告げると、すれ違う下男をつかまえ車を用意させた。


 場所は分からない。
 ただ耳をすませると、四方八方から鳥が鳴いているのが聞こえる。
 それに加えて蝉の声もうるさく感じられるほど。
 共通しているのは近くで風をきる音がしていること。
 康親ほどの耳になれば、それが空中を浮遊する音であることが分かる。
 動物の声が聞こえていることから高度は低い。
 康親は周囲の者にそれを伝える。

 いつもの六名が願良寺の玄庵の自室に集った。
 それが未の刻。
 頼明の帯に仕込んだ形代はうまくはたらいた。
 それによると頼明は、昼餉を内裏内でとった後、浮遊してどこかへ向かっているようである。
 一同が耳をそばだてて半時ほど、風切り音はいまだ止まず、しびれをきらした八郎の口からあくびが出るなどする。
「まだ地に足をつけぬのか」
 八郎が眠たげに言う。
「かれこれ半時は飛んでおる。遠いのう」
 聖子は八郎の肩をたたきあくびをたしなめる。
 部屋の中心、一同が囲む高坏の上に、例の形代の片割れが置いてある。それだけでは八郎の鼻息で飛んでしまう危険があるので、隅を文鎮でとめている。
 頼明の帯に仕込んだ形代の拾う音が、対になる形代から聞こえている。
 不思議の術であった。
 八郎が二つ目のあくびをしようと口を大きく開けた時である。
 頼明の声が聞こえた。
「おおん」
 それは陰陽術の略式の呪文であった。
 何かの呪が発動されたのである。
 一同、すわ動いたかと耳を近づける。
「おかえりなさいませ」
 聞こえてきたのは女の声である。
「ただいま戻った」
 その言葉と同時に、背後では確かな重さをもったものが地面を踏みしめる音がした。
 近くで足音がじゃりじゃりと続く。
 頼明が地面に降りたのである。
「どうでした都は」
 女が続ける。
「いやあ演奏会は大盛況じゃった。ほれ土産じゃ」
 頼明の胸元と思われる距離から懐紙を取り出す音がする。
「あら朝顔、ふふ」
 女のころころとした声が聞こえる。
「妻をめとっておったとは」
 思わず良成が声を発した。
「いやそうとは限らない」
 康親が慎重にこたえる。
 音から、靴を脱ぎ下男に足を洗わせた後、室内へ移動し何か水のようなものを口にしたことが伝わってくる。
 いつの間にか女の声がしなくなっている。
 少しの衣擦れと、身近な小道具を扱う音。
 そしてかすかな摩擦音。
 頼明は何かを書いている――。
 四半時ほど、頼明は手を動かし続けているようだった。
 辛抱強く聞耳をたてていると、遠くから板敷を踏む足音が矢継ぎ早に聞こえてきた。
 音の主が頼明の近くで立ち止まる。
「おかえりなさいませ」
 すわ家の者か。
 一同の息が一段と静かになる。
 声の主は男である。
「おお、ただいま帰りました。留守中何か変わったことはございましたか」
 頼明が敬語で返す。
 康親と八郎は気づいていたが、陰陽道に通じる頼明は、決して相手の名を呼ばない。
 此度のような事があった時のために、名を呼ぶのはいざという時であると教わっているのである。
「いや特にこれといって変わったことはございませんでした。そちらは」
 かすかな田舎なまりに気づいたのは康親のみ。
「こちらは久しぶりの都で少々くたびれました、ほ、ほ」
「年も年ですからどうぞご無理をなさらずに」
「これはいたい、ほほ」
 男と頼明の関係は不明であるが、頼明と軽口を交わすほどの間柄であることだけは確かである。
「して、首尾はどうなっておりますのか」
 男が声の調子を一段落として言う。
 これに対する頼明の返答はない。
 男の失言か。
 一同が固唾をのむ。
 しばしの沈黙ののち、頼明が口を開いた。
「ご安心を。首尾は上々にございます。夢は順調に書き換えが進んでおりますし、そろそろ形を失ってきたものもおると聞きますれば」
 形代を見つめていた一同は、いっせいに視線をあげ互いに目配せをし合う。
 男が続ける。
「我等とて先の長くない身。最後に人界にて陽の光のあたる地を踏みたいとのぞんで何の罰があろう」
 男が『人界で』と言っていることから、この男の普段いる場所が妖界であると分かる。
 康親と八郎がうなずき合う。
「まあ待たれよ。時期がくればまた声をかけますれば、ほ」
 頼明の声がそれ以上の発言を制したように聞こえた。
 男は「よろしく頼みましたぞ」と言うと、板敷の廊下をどたどたと踏みつけ遠ざかって行った。
 頼明は一人部屋に取り残された。
 音から察するに、頼明は再び何やら書き物をし出したようである。
 しばらく動きはあるまい。
 場所は未だに不明であるが、遠くで時を告げる鐘の音が聞こえた。
 申の刻であった。


 願良寺の奥に位置する玄庵の自室では、いつもの六名が一つの高坏を中心に車座になっている。
 頼明の動きが停滞していることもあり、一同は小休止をとっていた。
 乞われて白湯を持った小坊主が、所狭しと足場に気を付けながら各々の器におかわりを注いでまわっている。
 廊下に面した襖を開けているため室内には夏の終わりを告げる風が吹き抜け、窓際の御簾をさらさらとなびかせている。
 部屋を出て行く小坊主の最後の一人が、静かに襖を閉めてゆく。

「しかし、早速の収穫よな」
 便所から戻った八郎を待って、良成が皆に向けて放つ。
「やはりあの不可思議な夢は頼明の仕業でしたね」
 片膝を立てて寝っ転がっている聖子が賛同する。
「いささか話が出来すぎている気がいたしますが……」
「私もそう思いました」
 頼明を知る玄庵と康親が声を揃えて言う。
「頼明が誘っておるようにも思えますね」
 珍しく八郎が鋭い指摘をする。
「形代を仕込んだことはいずれ頼明にばれよう。それをもって頼明が何をしでかすかだ」
 康親が独り言のようにつぶやく。
 皆が専門家の言に聞き入る。
「あの……では先手をうちませぬか」
 寝転がった八郎をうとましげに手で制しながら明子が言う。
「ふむ、先手か。果たしてそのような事が可能なのでございましょうか」
 良成は言って康親に視線を投げる。
「今のところこちらの握っておる証拠は頼明が皆の『夢』を操っておるという事実のみ。しかし確たる証拠がない。さらに頼明の居場所もつかめぬ。これでは先手も何もあるまい」
 康親は厳しく言い放つ。
「頼明のことじゃ。しっぽを出すような真似はすまい」
 良成が面白くなさそうに言う。
「頼明が帯を解けばそこで形代の役目は終わる。それまでの短い間で頼明が失態を演じるようなことはあるまい」
 康親が、中央の高坏の上で向こうの音を流し続けている形代を指ではじいて言う。
「今宵は新月じゃ。何かを仕込むには恰好の日和なんじゃがのう」
 聖子が何気なくつぶやいた時だった。
 何かが聖子の中で弾けた。
 それは甲高い音を鳴らし砕け、長い余韻でもって聖子の耳を支配している。
 他の音はまったく聞こえない。
 聖子は両の目を見開いた。
 思わず飲みかけた白湯を落としそうになる。
 周囲に異変が気づかれぬよう、ゆっくりと体を起こす。
 聖子は、小さい声で「厠へ行く」と告げ、こともなげに廊下に出た。
 そうして長い廊下をつっと進むと縁側となっている突き当りの角で折れた。
 角を折れたところで振り向いてもう後ろ姿も分からぬことを確認し、聖子は一気に息を吐き出した。
 息を吸い、吐きを勢いよく繰り返す。
 うまく息が吸えない。
 聖子はその場にうずくまった。
 自分の両の手が膝の上でがたがたと小刻みに震えている。
 すぐ目の前の縁側の下では小川がちろちろと音をたてて流れている。
 目を開けると、縁側の下には早くも蛍が飛び交っている。
 耳を傾けると、近くからは蛙の声が、遠くからは蝉の声が聞こえている。
 聖子は今、自分の顔がどのようであるか想像もしたくなかった。
 今宵月がない事を喜ぶべきかもしれない。
 聖子は祈るように両の目をつむり、顔を両手の中にうずめ息を整えた。
 それからふうっと大きく息を吐いた。
「満月殿に会わねば」
 そう一言だけ小さく宙にあずけると、聖子は笑顔で一度、うなずいた。
 聖子は立ち上がり、厠へ向かった。
 厠の前には手水が設けてある。
 聖子は手水を柄杓ですくうと、片手で顔を洗った。
 生ぬるい空気の中、冷たい水が顔にしみた。
 聖子は何度かそれを繰り返した。
 手水は玄関近くに設けられており、土間で談笑をする小坊主たちの声が聞こえていた。
 部屋に戻ると聖子は体調不良を理由にその場を辞した。
「満月殿に会わねばならぬ」
 聖子の頭の中ではその言葉だけがぐるぐると回っていた。


 正直なところ、満月が今宵も現れるかどうかは分からなかった。
 だが聖子には確信があった。
 満月殿は必ず現れる。
 聖子は何故か分からないがそう決め込み、自室で歌を詠んで彼を待った。
 池に面している聖子の部屋からは、反対側の岸までいっぱいに蛍が飛び交うのが見える。
 池のほとりでは蛙がひっきりなしに鳴いていた。
 叢では早くも蟋蟀が鳴きだしている。
 聖子はそれらを歌に詠んだ。
 屋内では、丁度そのとき灯りを換えに下女が部屋に入ってきた。
 衣擦れの音が耳に心地よい。
 聖子はそれも歌に詠んだ。
 感覚を研ぎ澄ませ、自らを囲むあれやこれやを片っ端から歌に詠んでいく。
 こんな夜なのに、歌は次から次へと浮かんできた。
 聖子はそれもまた歌に詠んだ。
 そうして気の向くままに筆を走らせ、浮かんではは詠みを繰り返していた時である。
 池のほとりの生垣近くから手を打つ音が聞こえた。
 聞き間違いではない。
 聖子は急ぎ立ち上がると燭台を握り縁側に仁王立ちに立ち、灯りで大きく円を描いた。
 すると今度は生垣近くにあかりが灯り、大きな円が描かれた。
 それを見やって聖子は素足に靴を履き、池のほとりへ身を躍らせた。

「満月殿」
「聖子殿」
 二人は生垣を挟んで向かい合う。
 普段は蔦で見えないが、生垣には丁度人ひとり通れるだけの穴が空いている。
 そこに穴が空いているのは二人だけの秘密であった。
 聖子は穴の中に手を伸ばす。
 満月も同じように手を伸ばす。
 生垣の中で二人の両手が握られる。
「上手な歌が聞こえておりましたよ」
「冗談を」
 二人は顔を近づけ接吻を交わした。
 一時、頭の中が真っ白になる。
 ここへ来てためらうのか。
 聖子は唇を離すと思わず顔を足元へ向けうずくまってしまった。
 確かめなければ――。
 聖子の鼓動が早まる。
「聖子殿」
 視線を同じくしようとかがんだ満月の声がすぐそばから聞こえる。
「満月殿」
 聖子は小さくそうつぶやくと握っていた両手を勢い良く離し、そのまま両腕を広げ満月に抱き着いた。
「聖子殿」
 驚いた満月が上体をそらす。
 両腕を腰にまわした聖子が引っ張られて満月の膝の上に落ちる。
 満月の胸に顔をうずめる形となった聖子は、分からないように両手を繰り形代を探した。
「聖子殿」
 返事のない聖子をいぶかしがって満月が顔を向けた。
 聖子は焦った。
 なくてもいいものである。
 ないならよいものであった。
 しかし、あってはいけないものが、指先に触れた。
 聖子は勢いそれを掴むと急いで衣の腕の中に隠し両腕を引き上体を起こした。
「すまぬ、気分が悪くての」
 震える声を悟られないようゆっくりとした口調で慎重に返す。
 口調とは裏腹に鼓動は早鐘を打っている。
 目の前の男が、頼明なのか――。
 聖子の顔は血の気が引き青白く凍り付いていた。
 両目を見開く。
 頼明は老人であった。
 目の前の男は壮年である。
 見た目に同じようなところはない。
 だがしかし、口調が似ていたのである。
 姿形を変える秘術のようなものがあるのであろうか。
 八郎に聞けばよかった。
 一人でこんなところまで来てしまった。
 康親殿に相談すればよかった。
 康親殿が無理なら良成師匠でも。
 私は何をしているのだろう。
 聖子はその場に立ちつくしたまま動かない。
 いっそのこと目の前の男に正体を尋ねてみようか――。
 そこまで思い至り聖子は自嘲する。
 尋ねて何になるというのだ。
 聖子はその場から動けない。
 涙が自然とあふれてきた。
 聖子はそんな自身に驚いた。
 一体何の涙だというのか。
 騙された事に対する恨みの涙か。
 はたまた好いた相手が倒すべき相手だと判明してしまった悲しみの涙か。
 それとも。
 肉体をかけめぐって食い破るような様々な思いに、聖子は混乱を隠せない。
 今宵が新月でよかった。
 聖子は両目いっぱいに涙をたたえながら思った。
 今宵が新月でよかった。
 満月殿と呼ぶその相手は目の前であおむけに尻をついて動かない。
 長い沈黙が流れた。
 聖子の目の前で無言の男がゆっくりと立ち上がる。
 聖子には見ている事しかできなかった。
 男は聖子を一瞥すると、そのまま踵を返し消えていった。
 残された聖子の衣の中では、音を伝える形代が今なおはたらいていた。


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