主観的判断

祖母が亡くなってから49日が過ぎた、今の自分には実家に帰る余裕がないので名古屋にはその日には戻らなかった。

生きている時に祖母の亡くなる日がいつか来る事を時々考えて胸が苦しくなる事は何回もあった。

それがいまであるのに、ぼけてしまって施設に入っていたけれど、死なんてまだまだ考えていなかったのに亡くなった。

それで今はどうかというといまいち亡くなる前と変わってはいない。そういうものか。

自分の状況が切羽詰まっているからそうなるのだろうと思う。世間がコロナだからか。

正直もっと悲しみたかった。

今でも時々、ああいないんだなぁもう、なんて思って少しだけしんみりする。

同い年の従姉妹に手紙を書こうかと思うが書いていない、その行動にしても、自分のしんみりしたものを誰かと共感したい嫌らしい気持ちがあるような気がしている。

今自分の周りには、いい大人になっても自分の事ばかり考えていて自分の主観的な判断でしか物事を見ないような人がいて、下らないと思っている。

いざ実際、この状況での自分を考えると、そのあまり悲しむはずが悲しめていない所からすると、自分もその程度だったのかと思う。

良い事をしたい、地球を守りたい、恵まれない遠くの子供を助けたい、というのも自分から湧く感情であり、自分の主観的な考えともいえるのであろうと思う事は前からあった。

そういう意味では、自分がめんどうだなあ、やりたくないなあと思っている時にそれをやる事こそ、自分の主観的判断から外れた行為だと言えるのかしらと、それも前から考えている。

それが良いのか悪いのか。

自分の人生を誰かの人生みたいに生きるのか。

それは言い過ぎか。

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