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【短編】星

(4,108文字)

 土曜日の、正午少し前のことだった。
 娘がリビングのテーブルの前にちょこんと座って、一心に手を動かしていた。背中越しにのぞくと、画用紙一面に大きいのやら小さいのやら、色取り取りの丸をいっぱい描いている。
「シャボン玉かな」
 娘に話しかけた訳ではない。独り言で、しかもほとんど聞こえるか聞こえないかぐらいの声量だったはずだ。しかしクレヨンを持つ手がパタッと止まった。次の瞬間、娘はおおい被さるようにして両手と上体で絵を隠しながら、キッとばかりに振り返る。あまりの眼光の鋭さに、私はたじろいだ。

のど、乾いたな」
 娘にも聞こえるくらいの声で、背中に痛いほどの視線を感じながら台所へ向かう。
「あいつ、何で怒っているんだ?」
 昼食の用意をしていた妻に意見を求めた。
「あなた、何かしたんでしょう?」
「いや、何も。絵が見えたから『シャボン玉かな』ってつぶやいただけだぞ」
「それよ」
 妻は断言するが、私はわけが分からない。

「それよって、それのどこが問題なんだ?」
「言葉自体に意味はないわ。あの子は何か夢中でやっている時に声を掛けられるのがイヤなのよ。集中が切れるのがダメみたい」
「ぼそっと言っただけだぞ」
 妻は声を潜めた。
「あの子、耳がいいのよ。先に言っておくけど、地獄耳とか絶対禁句よ。それに私に似たのでもないからね」
 妻は先手を打って私の口を封じた。まだ釈然としない。

「じゃあ、あの丸は何なんだ?」
「星よ」
「えっ、五角形とか六角形じゃないのか」
「実際丸いんだから、それでいいのよ。それに描くにも、その方が簡単でしょう」
「でもはまだ幼稚園生だぞ」
「何ごとも最初が肝心よ。だから私がわざわざ図書館まで行って、星の図鑑を借りてきたんじゃない」

 そういえばテーブルの端に何冊か本が広げてあった気がする。
「ませているのかな」
「ううん、そういうことじゃないと思う。多分そういう年頃なのよ」
「何だよ、そういう年頃って」
 妻はそれには答えず、リビングの様子をうかがっている。

「お願いだから、そっとしておいてね」
 何もするなと言われると無性に何かしたくなるのが、私の悪い癖。私は娘の後ろを忍び足で通り過ぎる。途端に妻の顔が険しくなる。そんなことしたら逆に気づかれるわよと、その顔が言っている。妻の懸念通り、察知した娘がテーブルに突っ伏した。ほら、言わないこっちゃない。妻が天を仰ぐ。
 いつもながらの我が家の光景。


 夕方、妻が縁側に団子を備え、数本のススキを差した花瓶を置いていた。
「今日は中秋の名月か」
 やはり縁側があるのはいいものだ。カタログではウッドデッキとあったが、用途さえ合致すれば名前自体にさほどの意味はない。
 満天の星の中で、ひときわ明るく月が輝いている。
「そう。この頃はススキもとんと見なくなって。花屋で求めたら、女郎花おみなえしとの束で三百円もしたのよ」
 となげく。同感だ。昔は道ばたに生い茂っていたわば雑草に金を払うという感覚は、私にもない。

「いいねえ、何となく。こういうの」
「でも由来とか、ちゃんと知っているわけじゃなくて、母がやっていたのをずっと見ていたから、それらしく真似してるだけの。だから、いつか千佳が大きくなった時に、私と食べたお団子の味を思い出してくれれば、それでいいのよ」
 言葉とは裏腹に、妻は四季折々の行事やしきたりを大事にし、それを当たり前のように行っている。そして娘にも必ず何か一つでも手伝わせながら、自分で調べたいわれについてもみ砕いて話しているようだ。だが無理強いはしない。その辺のづなさばきが絶妙だ。ほとほと感心する。
「お前と結婚して、ホントよかったよ」
「何よ、今さら。気持ち悪いわね」
 妻は首を傾げながら、台所にもどって行った。


「あたし、お団子、大好き」
 風呂上がり。パジャマに着替えた娘の目が輝く。昼間、娘は団子を丸めるのを手伝ったのだそうだ。
「夕ご飯、食べたばかりだろう」
 妻の許可を得て、皿に並べた山の中から一個を楊枝に差して娘に手渡す。途端に娘は相好をくずす。
「もう絵は出来上がったのかい?」
「うん。見せてあげる」

 食べ物の威力は絶大だ。下手なおべっかの何倍、いや何十倍の力がある。満面の笑顔で口を利いてくれたばかりか、絵まで見せてくれると言う。
 娘は団子をくわえたまま自分の部屋まで走って、直ぐに胸元に画用紙を抱えて戻って来た。
「来月、お絵かき教室の展示会で貼り出されるんだって。千佳画伯のデビュー作よ」
 見ると色々な模様の星が、画用紙いっぱいに散らばっていて、その間が黒で塗りつぶされている。
「ほう、上手に描けたね」
 鼻の穴が少しふくらんだのは、満更でもない時の娘の癖。

「空は黒いんだね」
「うん」
「どうしてだか分かる?」
「ううん」
「教えてあげるよ。ちょっと待ってて」

 私はリビングの明かりを消して、懐中電灯を片手に縁側に戻った。
「懐中電灯がお日様だとして、ほら、こうして空に光を向けても周りは暗いままだろう。だから星と星の間は暗い。だけどこうして……」
 私は楊枝に刺した団子を片方の手で持って懐中電灯の前にかざす。
「ほら、光が当たると、団子のお星様が見えるだろう。分かる?」
「うん、わかった。私がお団子を食べられるのも、お日様のお陰ってことでしょう」
「うーん。まあ大きな意味では、そうかな」
 私は特に否定も肯定もしなかった。こういう思考は嫌いではない。
「やっぱりパパは物知りだね」

 その一言に、負けず嫌いが割り込んできた。
「あらママだって、色んなこと知ってるわよ。聞いてみて」
「じゃあね。お星さまは、昼間どこかに行っちゃうの?」
「ううん。どこにも行かないわよ。ずっと空にあるの。ただ星からの光はずっと弱いから太陽がまばゆしすぎて私達の目には見えないだけよ。ちょっと貸して」
 そう言いながら、私から奪った懐中電灯を娘に向けた。
「まぶしい」
「ほら、間にあったお団子なんか見えなくなったでしょう。お星さまも同じ。そういうことよ。さあ、もう遅いから歯磨きして寝ようね」
 妻が娘の背を押して寝室に消える。その二つの影を目で追っていたら、胸がつかえた。


 しばらくして妻がビールのロング缶を二本を手に、再び姿を見せた。
「さあ、これからは大人の時間よ」
 妻は私の横に腰を下ろしながら、「ここで見る月は、あなたの実家で見たのより大きいわね」と言う。
「同じだよ」と正す私を置き去りにして、「乾杯」と缶をぶつけた。
 妻は缶を傾けながら、
「ほら、あのお月様、はしを掛ければ登れそうよ」
 とあながち冗談でもない様子だ。

「そうだな。そういう感覚は人類共通なのかもね。確か、アメリカの映画会社のロゴで、少年が三日月に腰掛けて釣りをしているのがあったよな」
「ペーパームーンって映画もあったわね。この間レンタルビデオ店でDVDを借りて、久しぶりに見直したわ」
「聖書を売りつけながら旅をする詐欺師の父娘の話だろう」
「随分おおざつな要約ね。それでね、旅の途中に立ち寄った町のお祭りで、女の子が張子の月ペーパームーンに座って写真を撮ってもらうの。映画ではそのシーンはないけど、その写真が後でいい仕事をするのよ。でも二人は親子じゃないわよ」

 妻の喉が大きく動いた。
「もう一本、飲む?」
 妻は空になった缶を振る。
「いや、俺はいいよ」
 と言うと、妻は私の缶に手を伸ばして、
「あら、全然飲んでないじゃない。まだ胃の調子が良くないの?」
 と眉をひそめた。

「うん。ちょっとな。俺に遠慮しなくていいよ」
「あら、そう。悪いわね」
 ひょいと私のを取り上げた妻は、缶ふたを開けながら「あれっ何の話だっけ?」とひとりごつ。私が教える前に思い出したようだ。
「あっ、そうそう、月の大きさの話ね。どこで見たって同じだって、私も知ってるわよ。でもそう感じることってあるでしょう。そういうことよ」

 そういうことよ。妻が話を終える時の決め台詞だ。今更、話が戻り過ぎだよと指摘するのは野暮だ。私はただただ苦笑するしかない。
 妻とは必ずしも同じ方向を向いているとは思わない。でも少しぐらい違っている方が良い関係を長く続けられると信じて結婚した。
「一緒に暮らしているうちに、段々同じ方向を向いていくものよ」
 という祖母の助言が背中を押した。

 この頃、やたらと数年前に他界した祖母のことを思い出す。
「星で思い出したんだが、祖父は俺が子供の頃、亡くなってね。僕が『おじいちゃん、どこに行ったの?』って聞くと、祖母は『おじいちゃんは星になったんだよ』って言ったんだ。『どれ?』と尋ねると『あれだよ』って教えてくれるんだけど、指が震えるからどれだかわからなくてさ」
 抑えてた積りだったが、『おじいちゃんは星になったんだよ』辺りで声が少し震えてしまった。
「あっ、いや。これはちょっと違ったかな」

 そうとしたが、妻はじっと私を見ている。
「ねえ、やっぱりこの所のあなた、少し変よ。どうかしたの?」
「いや何でもないよ。このところ仕事が立て込んでたから、ちょっと疲れているのかな」
「そう、ならいいけど。気をつけてよ、あなた一人の体じゃないんだから」
「分かってる」
 妻の目をまともに見られない。
「悪いけど、先に休ませてもらうよ」
 私は腰を上げた。


 二日前に胃の精密検査の結果を聞いて以来、私の心は揺れている。
 ――分かっているさ。でもどうにもならないんだ。
 まだあどけなさが残る娘。この先も三人でもっともっと色んな話をしたかった。やりたいこともいっぱいあった。本当に人生はままならないものだ。
 そうなったら……。

 娘はいつか、あの絵のどこかに星を一つ、描き加えてくれるだろうか。
 私はにじむ月を見上げた。


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