見出し画像

【ショート・ショート】ネクタイ

「行ってくるよ」
「ちょっと、待って」
 出掛けにいつも妻が呼び止める。妻の視線が、私の頭からつま先へと動く。妻はネクタイの曲がりと結び目を軽く直して、
「これでよし。いってらっしゃい」
 と背中を叩いて送り出してくれた。


 独身時代は、毎日同じスーツで同じネクタイを締めていた。見かねた同じ部の女性社員が、私にネクタイをプレゼントしてくれた。
「だめですよ、いつも同じ格好じゃ。仕事一途って姿勢も大事ですけど、少しは服装にも気を遣わないと、営業なんですから」
 あまり私の好きな色や柄ではなかったが、
「女性社員に少しはキャアキャア言われるくらいでないと、注文は取れませんよ」
 そんなものかな。
 彼女の助言を入れてネクタイに合わせてスーツを替えてみた。確かに営業先で女性社員の私を見る目が少し変わった気がした。
 そのお陰かどうは不明だが、その日の商談は上手くいった。私は彼女のセンスの良さに驚いた。同時にファッションの持つ力に気づかされた。
 お礼に彼女を食事に誘った。それからというもの、商談の前には必ず彼女の助言を求めた。

 そして何度か目の食事の後、
「これからもずっと僕の服装を見てくれないか」
 彼女は私のプロポーズを受けてくれた。
「気づいてないみたいだけど、ファッションだけの力じゃないわよ」
「えっ」
「あなたの気持ちが前向きになったから、周りの見る目が変わったのよ。自信を持って」


 いつも次の日に着る服は、前日妻が揃えてくれた。
 スーツに合わせて、ネクタイ、靴下、ハンカチが替わる。よく分からないが、コーディネートというやつらしい。

 それはどんな時でも……。

 前の夜、妻が娘に電話で指示する。
 そして次の日の朝、出勤前に病室に顔を出して妻のチェックを受けた。
「いいよ、大変だからそこまでしなくて。誰も僕のことなんか気にしてないよ」
「案外見てるのよ。そういうものなの、女性の目って」

 そして……。

 ネクタイを直してくれる妻はいなくなった。


 二週間ぶりの出社。姿見に写して自分でネクタイを直す。そして妻の写真に、
「行ってきます」
 と声を掛ける。

「お父さん、ちょっと待って」
 出掛けに中学二年の娘が呼び止める。

 娘が、妻からその役目を引き継いだようだ。


よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。