【連載小説】あおかな (3)
4.プロポーズ
金曜日の夕方。
山脇孝幸は緊張した面持ちで河村家を訪れた。
「ここで、少し待っていて」
香奈子は玄関脇の客間に案内した。
「お母さん、お父さんは?」
香奈子は晴子を台所で捕まえた。
「帰ってるわよ」
「機嫌はいい?」
「多分。何か、お願いごと?」
「うん、ちょっとね。会ってほしい人がいて……」
「そう」
母親の晴子の顔に僅かに陰りが差した。
「それならそれで、私だけには事前に話しておいてよ。私はいつでも香奈子の味方よ」
「ごめんなさい」
「で、いつ連れて来るの?」
「今、客間にいる」
「えっ、もう見えてるの。あら、まあ、大変。お茶も出さないで」
晴子はばたばたと台所へ消えた。孝幸のことは母親に任せて、香奈子はその足で父親の部屋に入って行った。
「お父さん、会ってほしい人がいるんだけど」
努の肩がぴくっと動く。
「俺は会わんぞ。急に言われてもな。物には順序ってものがあるだろう」
「先に話したら、お父さん絶対逃げちゃうじゃない」
「とにかく、会わんと言ったら会わん」
「お父さん、聞いてよ!」
努は尚も言い募る香奈子を部屋から追い出した。
「お父さんったら、もう」
「私に任せて」
様子を見に来た晴子が後を引き継いだ。
努は、晴子の顔を見るとうんざりした様子で、
「お前も覚えているだろう。前に来た奴なんか、あいつの病気のこと話したら、逃げるように帰っていったじゃないか。それじゃあ、あいつが余りに可哀想だ」
と言った。
「分かってますよ。だけど、あの子が不憫で……」
晴子は涙ぐんだ。
「もう相手の方が見えているんですから、取り敢えず、会うだけでも会ってあげて下さい」
晴子は逃げようとする努の袖を引っ張った。
「分かったから、放せ」
努に言われて、晴子は手を緩めた。
孝幸は、座卓の前で、座布団をあてずに正座していた。努の姿を認めると頭を下げた。
努は、孝幸の顔を見た途端、前言を翻して客間から去ろうとした。
「お父さん」
晴子は、努の手を掴んで強引に座らせた。
「ごめんなさいね、ごたごたして……」
「今日は突然お伺いして申し訳ありません。私、山脇孝幸と申します。K新聞社で、フリーのライターをしています。単刀直入に申し上げます。香奈子さんとの結婚を、許して頂けないでしょうか」
晴子は黙っている努の肘を軽く突いた。
「君はもう聞いているかも知れんが、あいつは心臓に爆弾を持っているんだ。高校を二年だぶったのも、そのせいだ。大学病院の医者が、何とかという病名を教えてくれたが説明してくれたが、あいつのは何十万人に一人かの難病で、治療の方法もないそうだ。薬をもらって飲んでいるが、気休めだ。今までに二度死にかけている。今度発作が出たら、多分駄目だろうと言われているんだ」
「そんなの関係ありません」
「あるんだよ、結婚となるとな。好きとか愛しているとか、それだけじゃ駄目なこともあるんだ。どうしようもないことが」
「でも……」
バーン。努は、座卓を両手で叩いて、膝立ちになった。晴子が勉の腕を掴んだ。
「君に、娘の命を受け止められるのか! あいつが苦しんでいても、君は何一つ出来ず、ただただ見守るだけしかできないんだぞ。死んでいくのをただただ見ているだけなんだぞ。君にそれができると言うのか。それに耐えられると言うのか。俺にはできないし、耐えられん。俺達はこれまで何度、血の涙を流したことか分からん!」
孝幸には返す言葉がなかった。香奈子はずっと俯いたままだ。
「分かったら、帰れ!」
「あなた」
晴子が激高する努を宥める。
「俺たちには、あの子のために、どんなことでもやってあげたいんだ。できることなら俺の心臓と取り替えてもいい……」
「……」
「だがな、だめなんだ。何もできないんだ。何もな。俺達には、ただ今日一日何事もなく過ごせますようにと、祈ることぐらいしかできないんだ。それが悔しくて、悔しくて……」
「……」
「君にそれが分かるのか……」
努の固く握りしめた拳が震える。
「帰ってくれ……頼む」
「分かりました……。失礼します」
それが孝幸の口から出た精一杯の言葉だった。
客間で蹲る努を後目に、晴子は孝幸を玄関まで送った。香奈子は項垂れたまま付いてくる。
「あの人、あんなこと言ってるけど、香奈子のことが心配で、可愛くて仕方ないんです。悪気はないんだけど、口が悪くて。折角来て頂いたのに、嫌な思いさせて、ご免なさいね」
「いえ、香奈子さんから告げられた事を、私はそれほど深く受け止めていませんでした。出直します」
見送らなくていいと言うのに、香奈子は外まで付いてきた。
「どう、結構大変でしょう」
「お父さんは、君のことを本当に愛してるのが分かったよ」
「……」
「どうして、自分の病気のこと、きちんと話してくれなかったんだ。冗談めかして言うなんてフェアじゃないぞ」
「……」
「なぜ黙ってるんだ。病気のことを正直に話せば、僕が嫌いになるとでも思ったのか」
「前に一度付き合っていた人がいて、あなたと同じで病気なんか関係ないと言ってたのね。だけど、父から私の病気の詳細を聞いた途端、びびっちゃって。あなたは、その人とは違うけど、あなたも父と対峙して逃げ出したら、それはそれでも仕方ないかなあって、諦める積りだったの」
「前にも言ったけど、僕は今後の人生を、香奈子と一緒に歩きたいんだ。だから絶対逃げないよ」
「ご免なさい」
「おっ、珍しく、しおらしいな。それで、今まで態とあんな素っ気ないな話し方してたのか」
孝幸は香奈子の気持ちを思うと切なくなった。
「香奈子、精一杯長生きしろ。僕が最期まで見届けてやる」
玄関では努と晴子が、二人を窺いながら話している。
「俺だって、あいつに人並みの幸せを味あわせてあげたい。できれば、結婚させてあげたいんだ」
「分かってますよ、香奈子も、私も。それに山脇さんだって」
晴子はそう確信していた。
「山脇さんは、また来ますよ、必ず。その時は、二人のこと、許してあげてくださいね」
「ああ、分かってる。だけど、あいつ、今度も病気の説明を、俺に丸投げしやがった」
「あのこは、あなたに賭けたんですよ」
「まあ憎まれ役は、全部俺が引き受けるさ。それにしても……」
努は晴子に掴まれた左腕をさすっている。
「まだ痛いよ。お前、ホントに馬鹿力だな」
そうですか。晴子は澄ましたものだ。
■
日曜日。
孝幸は、電話で晴子に都合を聞いて、十時頃再び訪ねてきた。
「何だ、また来たのか。この間で尻尾を巻いて逃げたのかと思ったよ。今、香奈子はいないぞ」
努は最初から喧嘩腰だった。
「昨日、田舎に帰って両親に話してきました」
「田舎って、君はこの町の出身じゃないのか」
「大学がこちらでしたので、そのままこの街に……」
「それで……」
「先日、お父さんから『命を受け止められるか』と質されて、私は即答できませんでした。それが本当に情けなくて……。私には、香奈子さんの覚悟に立ち向かう気構えができていませんでした」
「……」
「正直申し上げて、これまで死とか命とかについて、真剣に考えたことはありませんでしたし、今もどれだけ理解しているか分かりません。ただ確実なことは、生きとし生けるものには、必ず死が訪れると言うことです。私は香奈子さんの生涯に関わりたいと願っています」
努は軽く頷いて先を促した。孝幸は、言葉を繋いだ。
「私には、香奈子さんの命を救うことはできません。ですが、香奈子さんの命が尽きるその時まで、変わることなく愛し、慈しむことはできます。支えることはできます。香奈子さんと一緒に生きたいんです。そして喜びも苦しみも、全てを香奈子さんと分かち合いたんです。それでは駄目でしようか?」
「君のご両親は何と言っておられるんだ」
「最初は反対しましたが、最終的には、お前の好きにしろと許してくれました」
「香奈子の病気のことも、包み隠さず話したのか?」
「はい。その上で、父は『諸手を挙げて賛成はできないが、反対はしない。お前の人生だから、後悔しないように、精一杯その人を愛しなさい』と言ってくれました」
晴子は堪えきれずに嗚咽を漏らした。努は熱いものが溢れそうになって、さり気なく天井を向いた。胸に込み上げてくるものを、ぐっと呑み込んだ。
「そうか。ところで君は、あいつのどこを、そんなに気に入ってくれたんだ?」
「居心地がいいと言うか、肌に合うと言うか、はっきりとどこが好きとは言えませんが、彼女が必要なんです。私の人生には。私は、彼女の前では、ありのままの自分でいられるんです」
「そうか……」
努は太腿をぽんと叩いた。
「この辺りが潮時だな。まだ君には分からんだろうが、父親ってのは、悲しいものでな。どんなに大事に育てた娘でも、いつかは他の男に取られてしまう。それに、こんな娘だからこそ、尚更可愛くてな」
「……」
「でも、仕方ないな。この後の娘の人生は君に託そう。よろしく頼む」
「えっ、本当ですか。ありがとうございます、お父さん」
「未だ、そう呼ぶのは、早い」
「はい、……お父さん」
「孝幸さん、香奈子のこと、お願いしますね」
はい。孝幸の声は力に満ちていた。
香奈子は昼過ぎに帰ってきた。努は孝幸が来たことを告げずに、
「なあ、香奈子。お前、孝幸君とどうしても結婚したいのか?」
と確認した。
「そうできたらとても嬉しい。私ね、今までずっと発作が出たらどうしようって、そんな心配ばかりして生きてきた。私が死んだら、お父さんやお母さんが悲しむの分かっているから。無理をせず、心配掛けないようにして、明るく振る舞って……。私がいなくなっても悲しむ人がいないように、あの時以来新しい友達も、作らないようにしてきたの」
「……」
「でもね、孝幸さんに出会って、考えが変わったの。いつ出るか分からない発作に怯えながら生きるよりも、たとえ少しの間でもいい、孝幸さんと一緒に生きたい、一緒に暮らしたい。やっと、心からそう思える人に出会えたの。あの人の前だと、ありのままの私でいられるの。でもこんな私からは告白できなかった。でも孝幸さんが結婚しようと言ってくれて……。それで私、最後のチャンスに賭けてみようと思ったの……」
「香奈子……。あなた、そんなことを……」
晴子が絶句する。
「私には、何度もやり直している時間はないの」
「お父さん、さっきのことを……」
晴子が促す。
「午前中、彼が来たよ。お前のことは彼に頼んでおいた」
「えっ、それじゃあ……」
「ああ。さあ、彼の元に行ってあげなさい。いつもの所で待っているそうだ」
香奈子の顔が輝く。
「ありがとう、お父さん」
香奈子はいそいそと出掛けて行った。
「自分が一番じゃなくなるのは、寂しいもんだなあ」
香奈子を見送りながら、努はぽつりと零した。
<続く>
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