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【短編】二人 (前編)

 小料理屋に着いたのは午後九時を少し回った頃だった。
 紺地に『田上』と白く染め抜かれただけの質素な暖簾のれんが懐かしい。
 何年ぶりだろう。

 引き戸を開けて、暖簾をくぐる。三卓のテーブルと五人が座れるカウンターだけの小さな店。カウンターには常連らしい人々が数人陣取っている。テーブルも二卓が埋まり、客の入りはまずまずといったところ。
「いらっしゃいませ」
 聞き覚えのある声の方を見やると、聡美は舞うように客の間を動き回り、愛想を振りまき、冗談に応え、てきぱきと店を切り盛りしていた。すっかり女将ぶりが板に付いてる。
 そんな姿を見て私は正直ほっとした。様子は聞いていたものの、記憶の中の彼女と変わってはいないかと危惧きぐしていたが、杞憂きゆうに終わったようだ。
 この数年の年月は、聡美にしっとりとした落ち着きを与えたようだ。三十を少し回った女の色香が漂っている。それでいて嫌みがない。実にいい時間を過ごして来たようだ。至る所に昔の輝きを見ることができた。それに、何より生き生きとしている。
 聡美は私に気づくと、ぱっと顔を輝かせた。髪に手をやり身繕みづくろいしながら、少しはにかむようにして、近づいてきた。自然とほころぶ顔に戸惑いを感じながら、それを悟られまいと努力している。
「いらっしゃい。随分久しぶりね」
「三年半ぶりかな」
「お元気そうね」
「しばらく遠くに行ってたんだ」
 ほのかに漂う匂い袋の香が懐かしく鼻孔をくすぐる。私は、二席空けてカウンターの奥側に座った。
「じゃあ、お帰りなさいっていうべきね。お飲み物はビールでいいの?」
「ああ、それから小腹が減っているから、何か欲しいな。今日のお奨めは?」
「平目の煮付けかしら。いいのが、入ったの」
「じゃあ、それも頼む」
 聡美は注文を持って、いそいそと板場に引っ込んだ。

「来ると分かっていれば、ちゃんと準備をしておいたのに」
 戻ってきた時には、女将の顔になっていた。近づき過ぎてもいないし、かといって離れすぎてもいない。甘えて言っているようで、その効果のほどを計算された言葉。勘と経験に裏打ちされた感覚。聡美は、どうすれば自分が相手に魅力的に写るかを知っている。
 それに薄黄緑色の落ち着いた色合いの着物がいい。年齢がそれを気負わずに着せている。そして、またそれが聡美の魅力を引き出してもいた。
「構えていない君が見たかったんだよ。相変わらず若々しくて、とても魅力的だよ」
 こんな台詞せりふがすらすら言える自分に少し驚く。
「まあ、上手になったわね。あなたは少しも変わっていないのね。あの時のまま」
 聡美は、ビールを注ぎながら、調子を合わせる。
「それは額面通りに取っていいのかな? それとも成長がないと言う意味かな?」
「ひねくれ屋のところも、変わらないわね」
「この年になったら、もう変わりようがないからね」
 去り際、聡美は周りをはばかってつぶやくように言った。
「もう少しで店終いなの。今日はゆっくりできるの? つもる話もあるし」
 接客用の顔の下から、素顔をのぞかせる。
「ああ、そのつもりだ」
 
「ごゆるりと、どうぞ」
 女将は帳場に戻って行った。
 二人のやり取りに、常連らしい一人が怪訝けげんそうな顔を向ける。私は気づかない振りをした。

 それから一時間ほどで、聡美は、暖簾を仕舞い看板の灯りを消した。
「女将、お愛想」
「ありがとうございました」
「また、いらして下さい。お待ちしてます」
 三々五々、客を送り出す言葉が聞こえる。客が何か耳打ちしている。「いやですよ」と聡美がつそぶりをする。客は笑いながら、「じゃあ、また」と帰っていく。

 店には、客は私一人になった。
「ちょっと待って居て」
 そう言い置いて、聡美は奥に引っ込んだ。「後はお願いね」と板前に言う声が聞こえる。年輩の板前が私に気づき頭を下げた。無駄口は叩かない所は相変わらずだ。私も軽く頭を下げた。
 小一時間ばかりして現れた聡美は洋服に着替え髪を下ろしていた。着物姿とは違った色香がある。
「お待たせ。どこへ行きましょうか?」
 やっぱりいい女だな、私は呟いた。
「えっ、何か言った?」
 いいや。私は黙って首を振る。
「そうだな、昔よく行った『ジャンゴ』に行きたいな。まだ、あのマスターは元気か?」
「ええ、元気よ。私も、時々昔が恋しくなったら、行っているの」


「変わっていないな」
 『ジャンゴ』の重厚な木の扉を開けると、スタンダードジャズの落ち着いた調べが暖かく私たちを迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お二人お揃いでとは、随分久しぶりですね。城島さんも、お元気そうで何よりでした」
 マスターとも何年ぶりだろう。
「マスターも、お元気そうで安心しました」
「いつもの席が空いておりますよ」
 促されるまま、いつも二人で座っていた席に着く。
 マスターが、グラスやアイスペールなどと一緒にボトルを持ってやってきた。
「これは、私からお二人へ」
「あら、どうして?」
「ただ嬉しいんですよ」
 初めてのデートでこの店に聡美を連れてきて以来、幾度となく足を運んだ。聡美にプロポーズしたのも、この店だ。マスターは、その後のこともたぶん知っている。それでいながら、そのことには何も触れない。そんな心遣いが嬉しい。
「こんなこと毎回してると、店が傾きますよ」
「嬉しいことがいっぱいあり過ぎて、店が潰れるのなら本望ですよ」
「ありがとう、マスター」
「ごゆっくり、どうぞ」
 マスターは、カウンターに戻っていった。音楽はいつの間にか、コルトレーンのバラードに変わっている。

 バランタインの十二年物。以前よくキープしたボトルだ。随分ご無沙汰してたのに、マスターは私の好みを覚えていてくれた。
 お気に入りの店とジャズとウィスキー、そして聡美。全てが揃っている。昔のままだ。何も変わらない。私は、何となくいい夜になる予感がした。

 聡美が手際よく水割りを作る。私は流れるような聡美の動作を目で追った。
 氷を入れグラス全体を冷やした後ウイスキーを注ぐ。一度マドラーでステアした後、水を静かに注いで軽くかき混ぜた。
「再会とお互いの今と未来に。乾杯」
「あなたに乾杯」
 チーン。グラスが、ぶつかる乾いた音。聡美の、グラスを口に運ぶ仕草がいい。えも言われぬ色がある。本当にいい女だ、再び私は思った。
「恋人は?」
「今はいないわ。あなた一人よ」
 軽めのジャブに、いきなりストレートが返ってくる。
「夫から恋人に格下げかい」
「違うわ、恋人に格上げよ」
「ほう、それは、それは」
 聡美は、下を向いておかしそうに笑った。
「ねぇ、知ってた。私、あなたとつき合っている頃は、デートの前はいつもシャワー浴びて、それから出かけていたのよ。今考えると、おかしいでしょう」
「じゃあ、今日もそうかい。随分待たされたけど」
「もちろんよ。慌ただしかったけど。久しぶりの恋人に会うんだから」
 再び、聡美は笑った。私もつられて笑った。

 何で別れたんだろう。聡美の屈託のない笑顔を見ながら、ふっと思った。
「久しぶりという気がしないな」
「そうね」
「君とはこれくらいの距離を取った方がよかったんだと、今頃になってやっと気づいたよ。そうしたら、あんな別れ方をしなくても済んだんじゃないか、そう思うよ」
「今更遅いわよ。でも、あの時私は、中途半端なところで折り合いを付けて、ずるずる流されたくなかったの」
「他にも選択肢があったような気がする」
「でもそうしてたら、今こうやって気軽にあなたと会うことなんかできなかったかもね」
 聡美はやっとふっきれたように見えた。
「それもそうだな」
「そうよ。だからあの時はあれでよかったのよ。……あれで」
 聡美は、自分に言い聞かせるように頷いた。

 女は、変われるから強い。一方、男はいつまでも過去を引きずって生きている。
 私自身も、いつまで経っても宙ぶらりんのまま完全燃焼しきれていない部分がある。だが、それがなかったら、今の自分はなかったのだとも思う。ただ聡美に会って自分の中でくすぶっていた何かが吹っ切れたのは確かだ。
 そして、今は聡美とのこのような関係を楽しんでいる。

 今夜は思いの外、ピッチが進む。
「おかわりは」
「貰おうかな」
 聡美は、グラスの残りを捨て、水割りを作る。氷がグラスにぶつかって乾いた音を立てる。
「少しは強くなったみたいね」
「いろいろあったからね」
「それに、あの頃に比べるとお酒を楽しんでるように見えるわ」
「別に楽しんで飲んではいないよ」
「あら、そうなの。私は、お酒が好きになったわ」
 そんな聡美をぼんやり眺めながら、私はふっと昔に思いを馳せた。

 声を掛けたのは、私の方からだった。
 俗に言う一目惚れ。すぐに私は聡美に夢中になった。何度かデートを重ね、さもそれが当然のようにプロポーズした。聡美は、すんなり受けてくれた。すべて自然の成り行きのようだった。聡美は一人娘だったが、父親は何も言わずに承諾してくれた。

 結婚して、聡美は仕事を辞めた。聡美の希望で実家の近くにアパートを借りた。
 結婚当初から遅く帰る日が続いた。決して仕事の鬼だったわけでもない。だが仕事の面白みが分かりかけてきた頃で、つい時間を忘れて働き、帰宅時間が遅くなる、そんな日々だった。
 一人アパートで待つ身は淋しかったのだろう。でも聡美は、根っから明るい性格の女だった。すぐに、隣の奥さんとも友達になった。実家の小料理屋を手伝いにも行っていたようだ。だが、そうやって無聊ぶりょうを紛らすにも限度がある。そうなると淋しかった分、私が帰宅すると、待ちかまえていたように、後ろに付き従いながら、今日一日のことを話す。食事の間はほとんど聡美の独壇場だった。そんな聡美をいじらしいと思った。

 そんな聡美の変化に気づいたのは、結婚して六ヶ月ぐらい経った頃だろうか。もっと早くに気づくべきだった。食べ物の嗜好が変わったことに。
 妊娠。
 うち明けられても、直ぐには実感が湧かなかった。
 えっ、私の子供。時間とともに驚きが喜びに変わる。嬉しさがこみ上げてきた。ありがとう、ありがとう。私は聡美を抱きしめていた。
 これで、一人淋しく私の帰りを待つこともない。話しかける相手がいる。日々に張り合いができたように見えた。直ぐに私の方が夢中になった。そして部屋の中には、日毎赤ちゃん関係の品物が増えていった。未だ早すぎると思ったが、ベビー服に玩具、姓名判断の本から出産の心構えの本まで。
 無理をするな。実家の手伝いも控えるように言った。私も、早く家に帰る日が多くなった。そんな私を現金な人ねと聡美は笑った。
 未来が明るく輝いて見えた、幸せを絵に描いたような日々に何の疑問も不安も持たなかった。持つはずがなかった。

<続く>


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