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【短編】二人 (後編)

「ところで、今までどこに行っていたの」
「アメリカだ。上司が心配してくれてね。いい機会だからって、気分転換も兼ねて三年間の海外任さ。君は、あの店をずっと……」
「そう。一人になってから、父の店を継いだわ。父は口には出さなかったけど、きっとそうして欲しかったんだと思ったの」
「それも理由の一つだったのか」
「そうね。あの頃、あなたの顔を見るのは辛かったし、子供のこともね。あまりに多くのことがありすぎたのよ。何か気を紛らす物が欲しかったのかも知れないわね」
「まだ君は、再婚はしないのかい」
 湿り出した雰囲気を払うように、話題を変える。
「あなたもね」
「目の前にこんないい女がいるのに、そんなこと考えられないよ」
「まあ、うまいわね」
 聡美は、くすりと笑う。
「もう一度やり直そうか」
 私は満更でもなさそうな顔で言う。
「今夜は、そういう野暮なことは、言いっこなしよ」

「ちょっと、酔ったのかな」
「酔いが覚めるような話をしようか」
「何だか怖そうだな」
「実はね、私、プロポーズされたの」
「えっ……。どんな人。僕が知っている人かい?」
「ううん。多分知らない人。とってもいい人よ」
「よかったじゃないか。で、どうしたんだい」
「でも、断ったわ。もう一年も前のことよ。私、結婚はもういいって感じ」
「……僕のせいかい」
「そうじゃないわ。ただ今は少し面倒なだけ」
「そうか。嬉しいような、嬉しくないような変な気分だな」
「なによ、それ。ややこしいわね」
「ややこしいのは、昔からさ」

 そう、昔から。
 私は、あの時の、聡美の顔、表情、声の抑揚まで覚えている。そして聡美の言葉、声、顔を思い出すときには、必ず、喜びと同時に悲しみの情が同時にそこには付いてきた。

 そんなある日、会社に電話がかかってきた。隣の部屋の奥さんからだった。聡美が救急車で病院に運ばれたという知らせだった。
 病院に駆けつけた私を待っていたのは、流産したという医者の言葉だった。
「手は尽くしたのですが……。残念です。幸いなことに母体には異常ありません。また二人で頑張って……」
 医者の言葉が、虚ろに響いた。足取りが重い。
 病室の廊下に隣の部屋の奥さんが待っていた。お礼を言って病室のドアを開けると、聡美の両親ga
来ていた。義母が側に付き添い、少し離れてたたずむ義父の目が赤かった。
 何でも、高い所の物を取ろうとして台から落ちたらしい。なぜ。どうして。
 聡美は、赤く泣き腫らした目で私を見ると、また泣き出した。
「赤ちゃんが、二人の赤ちゃんが……」
「うん、うん」
 私は、聡美の手を握って慰めるだけで、言葉が出なかった。

 二週間ほどで、聡美は退院した。未だ体調は完全には戻っていなかったが、悲しみは少し和らいだようにも見えた。私は少し安堵した。だが、それはあまりに楽観的すぎた。聡美の中で、哀しみは時間とともに負い目に変わっていった。心の傷は消えることなく、仮面の下で広がっていった。
 だが、私にはそのことに気づけなかった。いや、今にして思えば、気づかない振りをしていたのかもしれない。
 どこかに、聡美の軽率さを責める気持ちがあったのだろう。すれ違いが多くなった。このままでは、いけない。それは充分すぎるほど分かっていた。だがどうすればいいのか分からなかった。
 焦りがあった。それがいらだちを生む。会話が少なくなった。知らぬ間に無言の重圧が聡美を押し潰していた。

 そんな折り、聡美の父親が心労からか、持病の心臓疾患が悪化して他界した。聡美の受けたショックは大きかった。
「母が落ち着くまで、こっちにいてもいい?」
 私は聡美を残して帰宅した。
 数日後、聡美から署名捺印した離婚届が届いた。ごめんなさい、これ以上夫婦生活を続ける自信がありませんという短い手紙と一緒に。
 私は直ぐさま聡美の実家に駆けつけた。私の懸命な説得にも聡美はかたくな態度を崩さなかった。
「今ならお互いに新しくやり直せる。傷つけ合って生きることはないわ」
「私には君の傷はいやせないのか」
「今でも好きよ、あなたのことは。だけど、私にはもうだめなの」
「何がだめなんだ」
「ごめんなさい」
 聡美の涙ながらの訴えに心の傷の深さを知り、それを今の私ではどうすることもできないと知るに及んで、離婚届けに判を押した。
 あっけないほど簡単に二人の生活に終止符が打たれた。

 三杯目の水割り。目の前の聡美には、あの頃の頑なさは見えない。
「もう、四年になるのね」
 ふっと思いついたように、聡美が呟く。ため息が口をついて出る。
「……うん」
 私は余り触れたくない話題だ。だが二人にとって避けては通れない。
「幼稚園に行く頃かしら」
「そうだな」
 聡美の心には、未だに過去が暗い影を落としている。でも、そのことを口にできるだけ影が薄らいできたとも取れる。
「子供が欲しいとは思わないの?」
「今はね。先は分からないけど」
「それは僕のせい?」
「いや、違うと思う」
「やっぱり君には、僕が必要なんだな」
「まあ、しょってるのね」
「今度は、手を差し伸べて支えてあげられると思うよ」
「考えておくわ」

 ふと時計に目をやると、既に十二時を回っている。
「もう、こんな時間か。送るよ。お母さんが心配しているよ。また、店に寄るよ」
「母には、あなたに会うことを電話したわ。久しぶりにあったんだから、もっと話したいわ。時間は大丈夫よ。それに私、十九や二十歳の生娘きむすめじゃないのよ」
 今の世の中、十九じゃもう生娘はいないよと笑おうとしたが、止めた。聡美が、私をじっと見ているのに気づいたからだ。大きな瞳で見つめられると、気持ちを見透かされているようで、別に邪心があるわけでもないのに、妙に落ち着かなくなる。それが、くすぐったいような感じで、また実にいいのだ。
「そんなこと言って、待っている女の人でもいるんじゃないの」
「未だそんな女はいないよ」
「あら、未だだって」
「口説き落とせないんだ、なかなかガードが堅くてね」
「それは大変ね」
「そうなんだ、もうちょっと協力的だと助かるんだがな」

 四杯目。
「こうしていると、私たち恋人同士に見えるかしら?」
「見えないこともないだろう。少し年は食っているが」
「それとも人目を忍ぶ仲?」
「それもいいなあ。僕は、そう見えたとしても気にしないね」
「それじゃあ、不倫でもしようか」
 満更でもなさそうに、聡美が言う。
「元夫婦が不倫ってことはないだろう。それにお互い独り身だし」
「そうか」
「でも、あなたには再婚して、幸せな家庭を持って欲しかったわ」
「どうして」
「私ができそうもないからかしら」
「そう決めつけるには早すぎるよ。未だ若いんだから」

 だいぶ昔の調子が戻ってきた。
河岸かしを変えようか」
「そうね」
「どこにする。この辺りもだいぶ変わったから任せるよ」
「つき合っていた頃と同じコースでどう?」
「というと、この後は僕の部屋ということになる」
「それもいいんじゃない」
「となると、ちょっと期待してもいいのかな」
「さあ、どうかしら」
 聡美はいたずらっぽく笑う。

 ――頃合いかな。
「一つお願いがあるんだけど……」
「なあに? 改まって」
 聡美が少し気構える。
「まだ住む所が決まってないんだ」
「何だ、そんなこと。知り合いに、良心的な不動産屋さんがいるの。紹介するわよ」
「ありがとう。でね、それなんだけど、君の家に、転がり込んでもいいかい?」
「えっ、私の家……? 酔ってるの?」
「驚いたみたいだね」
「当たり前よ。突然そんなこと言い出すんだもの」
「だけど、単なる思いつきで言っているんじゃないよ。よく考えた末の結論なんだ。君には僕が必要なように、僕にも君が必要なんだ。それに君はお母さんを一人にしておけないだろう。だから僕が君の家に一緒に住むのが一番理にかなっている」
「でも、私は当分結婚する気はないわよ」
「いいよ、形式は後ででも。いつまでも待つよ、その気になってくれるまで」
「ちょっと待ってよ。そんなに一人で先走らないでよ。……だって、母にも聞いてみないと……」
 私は、にやりとした。
「実は、お母さんには了解を得てあるんだ」
 聡美は私をにらんだ。
「母とぐるなのね。ははぁーん、だから、さっき母はあなたに会うと言っても、驚かなかったのね。思い出したわ、あなたは母のお気に入りだったものね。母は離婚にも反対してたし。じゃあ、私がいくら駄目だって言っても勝ち目ないじゃない」
「そういうこと。でも君は嫌なのかい」
「ううん、そうじゃないけど。でも急だったから戸惑ってるだけよ」
「離れてみて分かったんだ、君の大切さが。もう一度言う、僕には君が必要なんだ。また一からやり直そう」
「もう、野暮ね」
 私は聡美の手を取った。聡美はその手にもう片方の手を重ねてきた。私が更に重ねる。温もりが伝わってくる。

 時間は、時としてむごい仕打ちをすることもあるが、一方で心の傷を癒しお互いの大切さを分からしめてくれることもある。二人にとって、この数年間は必要な回り道だったようだ。


 それから、しばらくして。
 この頃女将がきれいになったと常連の間では持ちきりだ。みんなはその理由に薄々感づいている。だが誰も何も言わないし、誰も何も聞かない。みんな二人のことを暖かく、そして静かに見守っているようだ。

<終わり>


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