【短編】なごり雪(1/2)
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1
岡村にとって、この年の忘年会はあまり気乗りがしないものだった。ここ何年か欠席し続けていたため、今年ぐらいは出てみるかと参加したのだが、始まって十分もしないのに既に後悔し始めている。四十歳を過ぎて少しは良くなったものの、仕事を離れた人付き合いが苦手なうえに、下戸ということも相まって気を重くしていた。
忘年会は、部長の挨拶から始まって、後は無礼講というお決まりのコース。頼んであったのか、コンパニオンが並んで挨拶をする。一向に興に乗れない。何が面白くて、時間と金を無駄にするんだろうとさえ思う。
料理もありきたりで、特にめぼしいものもない。だが、しらけた顔ばかしもしていられないので、カラオケでも歌って、それなりに愉し気を装うが、岡村はだんだん間を持て余してきた。毎日顔を合わせている同僚と仕事の話しをするのは無粋の極みだ。
そうこうしていると、所在なさげに見えたのだろうか、コンパニオンの一人が「飲まん?」と声を掛けてきた。心の糸を弾くものがあった。岡村は、顔を上げた。若いコンパニオンの娘が、ビール瓶片手に岡村に微笑みかけている。
「あっ、いや、あまり飲めないんだ。それより、君、故郷は何処?」
「うち、長崎」
「えっ、やっぱりそうか。私もだ。長崎は何処?」
「三浦天主堂の近くです。お客さんは?」
「私は、諌早だ。もう、何年も帰っていないが」
地方から出てきた人間は、多かれ少なかれ方言にコンプレックスを持つ。それが陽に出るか陰に出るか。例えば、関西人は、典型的な陽である。自分のアイデンティティーにさえしてしまう。東北、九州あたりは多分に陰だろう。岡村の持論だ。
彼女は九州人にしては稀な陽だった。
「うち、標準語はしゃべれんと。最初は何とか真似しよったばってん、やっぱりだめと」
と笑う。
岡村は田舎から出てきた頃を思い出す。自分は、自他共に陰だと思う。標準語を上辺だけで喋っている。未だに抑揚がおかしいところがある。それでも故郷に帰っても長崎弁は話さない。
「こっちは、長いの?」
「高校までは、向こうやったと。付属の短大が三島やったけん、仕方なく来たと」
「短大生か、今何年生?」
「二年生よ。来年三月で卒業。そしたら長崎に帰っと。早よう帰りたか」
岡村は、その笑顔の初々しさが眩しかった。コンパニオンのアルバイトも慣れないらしく、着物姿が一人歩きしている感がある。ビールを勧めても、苦いからと言って、お猪口を出したのには笑った。
「こっちに彼氏は、おらんとね?」
岡村が、取って付けたように長崎弁で聞いた。
「うち、高校も女子校やったし、短大も女子ばっかりやったけん。おらんと」
とあっけらかんに笑う。岡村もつられて笑った。
「どっか、行ったね」
「うん。東京には何回か行ったばってん、原宿とか新宿とか渋谷とか、人の多かけん疲るっと」
「神奈川にも良いところがいろいろあるよ。湘南ぐらいは、故郷に帰る前に一回遊びに行った方がいいよ。よかったら、案内ぐらいは引き受けるから。これ、私の名刺。君、名前は?」
あきこは、名刺を受け取ると一瞥して着物の袷に差し込んだ。
「私、あきこです。」
その後も彼女は何度か席に来て、岡村の無聊を慰めてくれた。
2
年が明けて、また忙しい一年が始まった。岡村の指揮するプロジェクトは、五月の製品発表に向けて準備を進めていた。
「岡村さん、7番に電話。田中さんって方」
この頃、発表を前に、いろんな所から電話がかかってくる。営業、企画室、組立現場など。いちいち対応していたら、身体がいくつあっても足りない。
やれやれ、今度は、どこの田中さんからだ。そう思いながら、受話器を取った。
「お待たせしました、岡村ですが……」
「もしもし、田中あきこです」
「えっ?」
聞き覚えのない女性の声。誰だか分からない。
「もしもし、あきこです。忘年会のコンパニオンの……」
「ああ。どうかしたの?」
あきこ? コンパニオン? まだ思い出せない。間の抜けた、何とも情けない返事。
「電話して、迷惑やった? 忘年会で岡村さんが、故郷に帰る前に湘南に遊びに来いって、案内ぐらいはしてやるって言ってくれたけん……」
長崎弁。やっと、忘年会の時のコンパニオンの娘だと分かった。だがあれはあくまでも社交辞令の積りだったから、本当に電話がかかってくるとは思ってもみなかった。
そうか。
心なし気持ちが弾む。
「ああ、覚えてる、覚えてる。もう試験は終わったのかな?」
「うん、なんとかね。後は卒業式だけ」
「まだしばらくは三島にいるの?」
「うん」
「じゃあ、今はちょっと時間がないから後で電話する。電話番号を教えて」
岡村は、仕事が一区切り付くと、後は部下に指示して会社を出た。車に乗り込んでから、携帯電話から田中あきこに電話を入れた。
あきこは、引っ越しの荷造りをしている最中だった。卒業式まで、あと十日だと言う。
湘南といっても、かなり広い。横浜でもよかったが、異国情緒という意味では長崎の方が歴史が古い。忘年会での着物姿のあきこを思いだし、鎌倉を案内することに決めた。
その週の土曜日に、JR東海道線の藤沢駅で待ち合わせることにした。
3
その日は、朝からどんより曇って、時たま雪が舞う寒い日だった。
岡村は、妻に少し気が引けたが、会社に行くと言って家を出た。
電話を貰った時、あきこの顔を思い出せなかった。だが、待ち合わせ場所に現れた女性を一目見て、岡村はあきこだと分かった。
あきこは洋装で髪を下ろしていた。着物の時は髪を上げていたので印象がまるで違う。化粧が薄いのも好感が持てた。
長い髪が風に揺れて、仄かに香水が漂う。着物は小柄に見せるのだろうか、思ってたより上背があった。
「おはようございます。待ちました」
「おはよう。いや、今着いたところ。久しぶりだね」
「迷惑じゃなかったとですか」
とあきこが尋ねる。
「いや、暇やったけん、よかと」
と答えると、
「なんか、おかしか」
と笑った。
藤沢駅から江ノ電で鎌倉に向かう。雪が風に翻弄されている。風があるせいで、かなり寒く感じる。
藤沢駅の売店で、使い捨てカメラと『私の鎌倉』という観光案内の雑誌を買っておいた。中に折り込みで『相州鎌倉絵図』という手書きの緻密な鳥瞰図が付いていたからだ。
コースは予め決めていた。岡村自身も何回か鎌倉を訪れている。若い娘が好みそうなスポットも会社の帰り書店に寄って確かめておいた。
電車に乗り込む。幸い席が取れた。電車の中は暖房と人いきれで暑い。あきこは、結露したガラス窓を手で拭って小さな窓を作る。その窓に風に煽られた雪が張り付く。雪は溶けてすぐに滴になり周りの滴を引き寄せる。大きくなった滴はさらに周りの滴を巻き込んで風に流れた。
江ノ島を過ぎると、右手に海が見える。
「黒沢明監督の『天国と地獄』という映画、知らないかな?」
「映画の好きな子がおって、ビデオば借りて見たばってん、つまらんやった」
世界のクロサワもこれでは形無しである。
「この辺りから見た江ノ島の風景が、事件を解く鍵になっていたんだよ」
それに応じて、あきこは改めて少し荒れ気味の海に霞む江ノ島を見た。
4
鎌倉駅から、金沢八景駅行きのバスに乗る。杉本観音バス停で下車。犬懸橋と記された小さな橋を渡って、釈迦堂切通しに向かう。住宅が途切れ杉林を抜けると、ぽっかり口を開けた淡い茶色の縞模様の岩盤が見えてくる。生憎と、落石の危険があるため立入禁止になっていたが、石鑿一本で切り開いた古人の執念が迫ってくる代物だ。将に、壮観である。
「すごい」
「ここは、釈迦堂切通し。これは含まれないが、鎌倉には、鎌倉七口といって、有名な切通しが七カ所あるんだ」
「切通しって何ね?」
「山を開いて造った道のことさ。昔の人たちにとっては、鎌倉と各地を結ぶ重要な交通網だったんだ。さあ、そこに立って。写真を撮って上げるから」
釈迦堂切通しを出て右手に進む。報国寺の山門が見えてくる。
「ここは、報国寺。竹林が素晴らしいんだ。行ってみよう」
拝観料を払い裏手に回ると、青々とした竹林が聳え立つ。寒いせいか二人の他に参拝客もなく、水を打ったような静けさが漂う。音を立てるのも憚られるような中を、緩やかな階段を下りる。
階段にうっすら雪が積もっていた。少し先を歩くあきこが足を取られた。
「きゃっ」
咄嗟に岡村が抱き留める。あきこはそのまま岡村にしだれかかった。
あきこが顔を上げる。しばし目と目が絡み合う。静かにあきこが目を閉じた。岡村は微かに唇に触れた。軽く啄むようなキス。あきこの唇が開く。微かに甘い香りがした。
再び二人は、どちらからともなく唇を重ねた。
二人の周りで停止した時間。
手の痺れが、岡村に時間の流れを覚えさせた。どれくらい経っただろう。それほど長い時間ではない。
岡村は唇を離した。あきこの目が潤んでいる。心臓の鼓動が体中に響く気がした。岡村の中の男が疼いた。振り切るように、岡村はあきこの身体を放した。
「お茶でも飲んで、暖まっていこう」
「うん」
休耕庵の茶席で和菓子と抹茶をいただく。暖を取りながら、
「どうして、電話くれたの? 正直、期待していなかったんだ」
と尋ねた。岡村は連絡をもらってからずっと気になっていた。
「驚いた?」
「ああ、少し。こんなおじさんは相手にされないと思っていた」
「岡村さんは、他の人とどこか違ったけん」
「どこが?」
「どこがて言われても、うまく言えんばってん、優しそうだったけん。岡村さんみたいな人、うち、好いとうもん」
遠く故郷を離れた地で出会った二人。互いの心の糸を方言が紡いでいく。
「あきこって、どう書くの?」
「明るい子。平凡やろ」
「でも、君にぴったりだ」
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