見出し画像

【連載】ラジオと散歩と味噌汁と(6/15)

あらすじ:散歩から戻り、朝食を摂りながらラジオを聞く。それが私の日常だった。ある日、いつものラジオ番組で、一年ほど前になくなったはずの君のリクエストが読まれた。私は椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。混乱しながらも、君と過ごした日々を思い出す。それはとても奇妙な思い出だった……。

6.発病

 いつ頃からか、君は時々散歩を休むようになった。
 最初は体調不良ではなく、他の理由だったように記憶している。言い訳のネタが切れて、やっと君は、
「ごめんなさい。今日は体調が優れなくて」
 と打ち明けた。別に謝るようなことではなかったが、今にして思えば我慢強い君が弱音を吐くなんて余程のことだったんだろう。

 しかし次の日は、また一緒に散歩した。ちょっと疲れていたんだろう。湧き上がる胸騒ぎを気のせいだったと心から押しやって、そう思い込もうとしていた。事実、一日休むと二週間ほどは散歩を続けていた。

 だが、その頻度は次第に大きくなっていった。注意して君の様子を見ていると、幾つか気になることがあった。君はちょっとした段差につまずくようになった。両手をぎょう視しながら開閉を繰り返す姿も目にした。その背中には疲れがにじんでいた。
 君が流産した時、私は何にも気づけなかった。今度は、このまま異変を見逃して手遅れになってはならない。

 ある日、私は嫌がる君を引きるようにして病院の門をくぐった。診察の結果、ALS(筋縮性側索硬化症)という病名を告げられた。舌をみそうな名のそれは、段々手足に力が入らなくなり、しまいには筋肉がどんどんせていく病気だと言う。
 そしてやがて……。

 衝撃だった。目の前が暗くなった。私はどうやって診察室を出たのか覚えていない。
 気づいた時には、会計待ちでベンチに座っていた。私は、病院に連れて来たことを後悔していた。病名がわかったところで、治るわけではない。
 ちくしょう、ちくしょう。やり場のないいきどおりに、私は自分のももを何度も拳で叩いた。

「大丈夫よ。良い薬もあるって先生もおっしゃっていたし……」
 それだって時間を少しだけ先送りできるだけだ。君はそう慰めながら私の肩を抱く。君の指先が白く震えていた。
 帰りのタクシー内では、私は運転手から病人と間違われるほど動揺してあおい顔をしていた。
「元気出してよ、もう。病気なのは、私なんだからね」
 君はそんな私に明るく笑った。

 帰宅して改めて「君は平気なのか?」と尋ねた。
「だって、仕方ないじゃない。泣いたり、わめいたりして病気が治るのなら、いくらでもそうするわ。そんなの得意技だもの。でも、そうじゃないから、泣かない。喚かない。黙って笑ってやるの、私を、私の病気を、私の人生を」
 無理に作った君の笑みが崩れてそうになる。

「でも悔しい。あなたに申し訳ない」
 ごめんねと君は謝る。
 謝らないでくれ。君は少しも悪くない。その一言が出ない。まだ私には君の病気を受け入れる覚悟ができていない。

 ベッドに入ってもなかなか眠りに就けず、うとうとするばかりだった。

 私は暗い浜辺に立っていた。荒々しい波が押し寄せて、私は思わず後ずさる。波は私を暗い海の底に引きずり込もうとしている。逃げなくては。気は急くが、足がもつれて倒れ込んだ。起き上がろうと焦るが、手も足も意志に反して寸分も動かない。
 波は容赦なく押し寄せる。頭をいっぱいに反らせても、口と鼻から塩水が浸入して、私は咳き込む。ついには波が頭を覆う。私は息を止める。次第に苦しくなって……。ぷはあーっ。吐き出した空気の後から、のどに海水が流れ込む。うわーっ。

 そこで目が覚めた。夢か。いやに現実味のある夢だった。私はぐっしょり汗をかいていた。

 ふっと気になって君に目をやると、背を向けたまま身じろぎもしない。だがまだ起きている気配がした。
「眠れないのか?」
 君の肩がぴくっと動いた。
「大丈夫か?」
 君はゆっくり私の方に向き直った。頬が涙に濡れている。私は心臓をわしづかみされた気がした。そうだ。一番辛いのは、一番悲しいのは、一番悔しいのは、紛れもなく君だった。

「どうして私にばかりこんな酷い仕打ちが続くのかしら……。私、何か特別なことを望んでいるんじゃない。ただ、あなたと一緒に散歩したり、味噌汁を作ったり、そんな普通のことがしたいだけなのに……。そんなことさえ……、できなくなる……、こんなことって……」
 絞り出すようにつぶやく君の肩を、僕は黙って抱き寄せた。

「ごめんなさい……。泣かない積もりだったけど。でも今日だけ……。今だけ……。許して……」
 君は肩を振るわせ、唇をみしめた。堅くつぶった目から涙が一筋流れ、私の胸を濡らした。気づいたら私も君と抱き合ったまま泣いていた。

 ただ、それが私が見た君の最後の涙だった。それ以降、知る限り、私の前では君は涙を見せなかったはずだ。
 福はあざなえる縄のごとしとう。それにしても不幸の単糸の太さに比べて、幸福のそれのなんと細く、何ともいびつな縄であることか。
「お願い、私の両親にはまだ黙っていてほしいの。時期が来たら、私からちゃんと話すから」

 これまで私は、あまり時間を意識したことがなかった。だから明日を何の恐れもなく迎えられた。だが今は違う。時間は有限だと、君の病気が教えてくれた。私は明日を迎えるのが恐い。目を閉じて眠りに就くのが恐い。
 今日と変わらない明日が来る。たったそれだけのことが幸せなんだと分かった。

 何時ごろからか、君がどんなに明るい笑顔を作ろうとしても、その笑みから憂いや苦悩がみ出すようになった。
 そして一昨年の今頃、私はベッドの君に「散歩に行ってくるよ」と声を掛けるだけになってしまった。
 それでも君は、私が戻った頃を見計らって顔を見せた。無理するなと言う私にタオルを渡しながら、
「汗をいたままだと風邪かぜを引くわよ」
 と気を配る。風邪に関する知識はお粗末だが、君は難しい病気にはとても詳しくなっていった。

<続く……>


よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。