【連載】冷蔵庫と魔法の薬 (3)
3.祭りの後
日曜日の朝。
健二は寝不足を顔に貼り付けて居間でソファーに座っていた。不機嫌な気を全身から発している。
健二は今日は人と会う約束がある。濃いめのコーヒーでぼーっとした頭を少しでもましな状態にしたかった。
「ねえ、ニイニ。頭痛薬、ない?」
昼前、死にそうな声を引き摺りながら、環がほとんど這いずるように居間に入って来た。ソファの傍らにへたり込み、ぼさぼさの髪を右手で掻き上げる。
大きめのパジャマの胸元のボタンを閉めていないようで、ずれた襟首から左肩のブラの紐が見える。痛い、痛いと頭を抱える度にパジャマの襟がはだけて、はち切れそうな胸元が覗く。健二は目のやり場に困る。それ以前に反射的にそこに目が行く自分の浅ましさが腹立たしい。
「お前、羽目の外し過ぎだ」
健二は態と不機嫌そうな声を上げた。
「分かってるわよ。お願いだから、そんなに大きな声出さないで。お説教は後でゆっくり聞くから、とりあえず頭痛薬、ちょうだい」
「ないよ、そんなもの」
「そんなあ」
環は頭を押さえて、その場に突っ伏した。
「コーヒーでも淹れてあげるよ。コーヒーには鎮痛作用があるんだ。少しはましかもな」
環は、席を立とうとする健二の腕をがしっと掴んだ。
「じゃあ、いいわよ、これで」
健二の腕を杖代わりに上体を起こすと、マグを取り上げおもむろに飲み干した。呆れる健二を後目に、環は少し落ち着いたのか顔を上げた。
その途端。
うっぷ。
環は口元を押さえて流し場に走った。
健二はシンクに突っ伏したままの環の背中を摩った。汚物を水で洗い流した後、濡らしたタオルを差し出した。
「ごめん。汚しちゃった」
「気にするな。俺にも何度も経験がある」
「ニイイはこんな女、嫌いだよね」
「気にするなと言ってるだろう」
環は少しは楽になった。その時になって、環は健二の口調が少しきついことに気づいた。
「ニイニ、何か怒っている?」
きょとんとした顔を向ける。
「お前、夕べのこと、覚えてないのか?」
うん。環は頭に響かないように、ゆっくり頷いた。
「お前が下着姿でソファーに転がり込んでくるから、俺は追い出されて、お陰で寝不足だ」
「私は一緒でもよかったのに」
「お前は平気でも、俺の方が構うよ」
「昔はよく一緒に寝てたじゃない」
「よく、じゃない。あの時一度きりだ」
環が小学校三年生の夏、上村家と一緒に行った海水浴の帰りでのことを言っている。環はそのまま私の家に泊まったのだが、夜中に恐い夢を見たと泣きながら健二の布団に潜り込んできたのだった。
「えっ、そうだっけ。ニイニ、よく覚えているね」
――忘れるものか。そのせいであの時も俺は、一睡もできなかったんだぞ。
図体はでかくなったが、そういうところは少しも変わらない。健二にすれば、一度目も十分衝撃的な出来事だったが、昨夜はその比ではない。
「で、どうだった?」
「何が?」
「私よ。あの頃と比べると随分大きくなったでしょう」
環はどうだと言わんばかりに、パジャマの上から胸を手のひらで持ち上げて大きさを強調する。
健二ははことさらに無視して話題を変えた。
「結婚式はどうだった?」
「うん。ヒトミのウエディングドレス姿、とってもきれいだった……」
健二は次の言葉を待った。しかし幾ら待っても後が続かない。
「それだけ? もう少し何かあるだろう」
健二は水を向けると、環は訥々と話し出した。
「私ね、ヒトミの元彼、知ってるの。高校生の時、一度紹介されたことがあって、中学の先輩で、その頃ヒトミと付き合っていたの。結婚の相手はてっきりその人だとばかり思っていた」
健二もその娘のことは知っている。何度か男関係の噂を聞いたことがあった。
「違ったのか」
「うん。その人とはとっくに別れたんだって。新郎は、会社の先輩に誘われて行った合コンで知り合ったという、IT関係の会社の人。まだ若いんだけど、役員だって」
「ふうん」
「それはいいんだけど。選りに選って披露宴に元彼を招待していたのよ。呼ぶ方も呼ぶ方だけど、来る方も来る方よね。その辺の心理、私には分からない」
「まあ恋愛と結婚は違うだろうし、考え方も人それぞれだろうしな」
「ニイニは平気なの。私は嫌だな、そんなの」
「平気とは言わないさ。でも今は分からなくても、後で失ったものの大きさに気づくこともあるってことさ」
「ニイニにもそんな経験があるの?」
「うーん、どうかな」
「それでね、気がむしゃくしゃして、美由紀と飲んでたの。途中から記憶がないの」
「お前は悪酔いして、美由紀さんにタクシーで送ってもらったんだ。ちゃんとお礼、言っておけよ」
「はーいっ」
ん。
健二は、環の目が媚びるような輝きを見せたのに気づいた。健二は環が口を開く前に、
「先に言っておくが、今日は予定があるからな。お前に付き合えないぞ」
と先手を取った。
「まだ何も言ってないじゃない」
「お前の目論見なんか、とっくにお見通しだ」
「ちぇっ、ばれたか。お土産を買うのに付き合ってもらおうと思っていたのに」
環は小さく舌を出した。
「何? デート?」
環の勘が鋭いのは昔からだ。
「そんなんじゃない。仕事の話で人と会うんだ」
「だからそんな格好なんだ。でも今日は日曜で、会社は休みでしょう。怪しいなあ」
下手に言い訳しようものなら言葉尻を捕まれて、ずるずると口を割る羽目になる。
「サラリーマンは辛いんだよ。あっ、そろそろ行かなくては」
健二は態とらしく腕時計を見ながら、ジャケットに袖を通した。
「部屋を出る時、ドアの郵便受けに投げ込んでおいてくれ。じゃあ、気をつけて、さっさと帰るんだぞ」
健二は環に向かって鍵を放り投げた。
<続く>