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【短編】トマト

(2,029文字)

 妻がトマト嫌いだと知ったのは、結婚した後で、それも随分経ってからだった。
 発端は、小学二年になる息子の言い訳だった。日曜日、家族三人で買い物に出掛けた折、デパートのレストランで昼食をった際のことだ。
 彼は、皿の端にトマトをどけている。私がとがめると、彼は「仕方ないよ。遺伝だよ。ママも大嫌いなんだから」と口をとがらせた。
 それは初耳だった。ふっと妻に目をやると、ました顔でせっせと細切れにされたトマトを私の皿に移している。
「あら、前に言わなかったかしら」
 妻はとぼける。
「覚えていない? ほら、よくデートの時、食べてもらっていたじゃない」
 私は二の句が継げなかった。
 そういえば、彼女が自分から生のトマトが入った料理を頼むのを見たことがない。意に反して注文した皿に生のトマトが乗っていると、「大好きだよね、あげる」と私の返事も待たずに寄越したものだ。私はかつにも、自分の好みを覚えていてくれたことに感激し、それを優しさとか愛情とかと勘違いしていたわけだ。不覚にも程がある。
「種の周りのドロッとしたのが、青臭くてダメなのよ」
 顔をしかめただけでは足りず、身震いまでしている。
「平気な顔してるの、大変だったんだから」
 私は開いた口がふさがらなかった。
 いつだったか妻は、
「トマトが嫌いだなんて言うと、子どもみたいだって笑われそうで、それがしやくだったのよ」
 と打ち明けた。そんな妻の地味な負けず嫌いを微笑ほほえましく思ったものだ。

 その数日後、私は会社の帰りに、近所の八百屋の店先にざる盛りされていたトマトを買った。それは真っ赤で傷もなく形もきれいだったが、如何いかんせんうまくなかった。何だか水っぽくて、っぱくて、青臭かった。
 ハウス栽培されたトマトは一年中店頭に並び、欲した時にいつでも食べられる。だけどそれは、生産性や利便性と引き替えに、トマトとは名ばかりの全く別の物になった気がする。それを妻に話すと、
「でも結局は消費者が求める物しか、店先には並ばないものなのよ」
 と訳知り顔でのたまう。
 確かに、八百屋には出荷規格にのつとり選別された商品だけが並ぶ。少しでもそれから外れた物は値が大幅に下がるため、出荷されずに捨てられることもあると聞いたことがある。でもそれは味とは全く関係ない話だ。
「そうは言ってもな。昔はもっと甘かったんだ」
 私が不平を漏らすと、
「昔は昔、今は今。良くもしくも、みんな変わっていくのよ」
 と妻は話を締めくくった。
 それ以来、二十数年間、この手の話題には触れていない。

 二ヶ月前、妻がたおれた。脳こうそく。幸い一命は取り留めたものの、意識が戻ることはなく、今も寝たきりの状態が続いている。私は、ほぼ毎日のように、面会の時間と同時に病室を訪ね、妻を見守りながら、昼に弁当を使って、夜になって面会の時間が終わると帰宅する。
 ある日、いつものように私はコンビニで買って来た弁当のサラダを食べていた。規則では病室内での飲食は禁止なのであるが、個室なので少し大目に見てくれる。
「トマトに含まれる何とかという成分は、血をさらさらにするんだ。俺の言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったんだぞ」
 ほら。トマトの輪切りを妻の鼻先に持って行く。次の瞬間、妻の眉間にかすかにしわが寄った。
「えっ、わかるのか、おい」
 三回繰り返し確認して、私は急いで担当医を呼んだ。
 しかし医師は、「残念ですが、これは単なる生理学的反応で、意識が戻ったわけではありません」と、穏やかな声で説明した。
 ――それでもいつかは……。
 それ以来、私は面会にトマトを欠かさない。

 チチンプイプイ、美味おいしくなーれ。
 トマトの輪切りを皿に並べ、少量の塩をぱらぱらと振り掛ける。美味しくない時はこうすればいいんだよ。おばあちゃんの知恵というヤツだ。おまじないは口に出してもいいのだろうが、いまだに祖母の教えを守って心の中でとなえている。
「塩、かけ過ぎないでよ。あなた、血圧が高いんだから」
 よく妻は口酸っぱく私に注意していた。その本人が先に病になったのだから、世の中皮肉なものだ。
 お呪いのお陰か、トマトの酸っぱさと青臭さが消えて、少し甘く感じた。

 午後の柔らかな日差しが私の背に射す。私は妻の穏やかな寝顔を見やる。
「オヤジ、まだそんなことやってるのか。いい加減、止めなよ」
 振り向くと、息子があきれ顔で立っていた。休日で見舞いに来たものらしい。
「かあさんが目を覚ましたら、その時は勘弁してやるさ」
 トマトの輪切り。一切れをフォークに刺して妻の鼻先に近づける。眉間にしわができる。その反応を見てから、私は口に運ぶ。
 ――俺だって、こんなこと、やりたくてやってるわけじゃないさ。
 私は今日も妻の傍らで儀式を繰り返している。


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