【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】『クール・ストラッティン』、再び (1/8)
1.仲間の死
『秋の日は、釣瓶落とし』とはよく言ったものだ。ブラインドを下ろした窓の外が暗くなってきた。石井は丁度タバコに火を点けて大きく吸い込んだ時だった。
「プーさん、電話でーす」
携帯電話はロッカーに仕舞ってある。従って相手は自ずと限られた。
「電話ーっ」
無視しようと決め込んだ時、大声を上げて受話器を頭上で振っているスタッフと、運悪く目が合ってしまった。
「はいよ」
仕方なく軽く手を挙げて合図した後、タバコを揉み消して喫煙室を出た。
この頃は、嫌煙権とやらがとかく幅を利かせて、喫煙室でしかタバコが吸えない。ガラス張りの部屋だなんて動物園のパンダじゃあるまいし、全く人を馬鹿にしていると思うが世の趨勢には逆らえない。この際思い切って止めればいいじゃないと、よく事情を知らない人からそう言われる。
だけど、タバコと酒とジャズ、これらは切っても切れない仲なんだ。そんな変な思い込みが石井の中にある。
――全く人使いが荒い事務所だ。
悪態をつきながらスタッフルームに向かった。スタジオ入りして丸二日。やっとパート取りが全て終わって、これからどこぞに飲みに繰り出そうかと、思案していたところだ。実にいいタイミングでお呼びが掛かる。
――絶対、ここのスタッフの中に、うちの事務所のスパイがいる。
そんな眼で周りを斥うと皆それらしい顔に見える。若い男のスタッフはにやにやと意味深長な顔で電話を示した。石井はそいつを一睨みして受話器を取り上げた。
「もしもし、石井ですが……」
遮るように澄んだ声が響く。
「プーさん。あたし。分かる?」
「……」
石井は思わず受話器を叩き付けたい気分になった。
石井は、こういう人を試すような物の言い方をする女は嫌いだ。元来、石井は、記憶力にあまり自信がない。つい最近も、相手が誰か分からないまま適当に話を合わせて、挙げ句小一時間もくだらない四方山話に付き合わされたことがある。どこかのスナックのママらしいとまでは判明したが、また飲みに行くよと受話器を置いた後も、結局店の名前さえ思い出せず終いだったことを思い出した。
分かるわけないだろうと叩き切れれば、どんなにか小気味いいだろうと思うのだが、そうできない弱みを至る所にこぼしている。
`
「もしもし、プーさん?聞こえてる?」
石井が黙っていると、相手は畳みかけてきた。その時、頭の中を閃光が走って、石井は一人の女の名前を思い出した。
「景子か」
「そうよ、どこかのキレイなおネエさんでも思い出してたんでしょう」
何事にも例外がある。景子もその一人だ。
「そんな憎まれ口も含めて、久しぶりだな」
「仕事中に、後免ね」
「いや丁度終わったところだ。よくここがわかったな」
顔が緩まなかった気になったが、石井に注目している奴はいないようだ。
「事務所に電話したら、そこの電話を教えてくれたの」
「どう、調子は?」
「まあ、まあかな。そっちは?」
「まあ、まあかな」
「それで? そんな話するために、ここまで追いかけてきたわけじゃないだろ。何かあったのか?」
景子の声が急に沈んだ。石井は待った。
「実はね、笠井さんが、亡くなったの」
「何、サブが!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。憚って見回すとスタッフの視線が集中している。自分に注がれる好奇の目を何でもないと手で払いながら、
「事故か?」
と声を潜めた。
「ううん、病気。詳しいことは、後で。お通夜は、明日の夕方からなんだけど、出られる?」
「たぶん、大丈夫だ。夜にでも、連絡入れるよ」
石井は、景子が告げる携帯の番号を控えた。
「じゃあね、待ってる」
「ああ」
プープーという不通話音が遠くに聞こえる。
突然聞かされた、サブの死。若い頃は遠くにしか感じなかった死が、このところ段々身近になってきている。そういう年齢になったんだと認めたくない、そんな気持ちがどこかにあった。
受話器を持ったまま暫く佇んでいた。
「プーさん、大丈夫ですか?」
側のスタッフが心配そうな顔で見ていた。
「ああ、大丈夫だ」
石井は事務所に連絡して明日の予定をキャンセルしてもらった。
人の死は、誰かに告げた途端に、自分の中で現実のものとなる。サブの死がじーんと心に染み込んできた。
その夜、石井は景子に電話を入れた。
「ガンだったんだって。見つかった時には、手の施しようがなかったそうよ。実はね、亡くなる二ヶ月ぐらい前かな、お店に見えたの」
石井が覚えているサブは、中背で小太りだった。汗っかきでライブで二曲も演奏するとシャツが絞れるほどだった。
「そうか」
「2時過ぎかな、丁度客足が途絶えた頃。今日は気分が乗らないから、夕方まで店閉めようかなって思ってたところだったの。入ってきたときには、直ぐにはそうと分からなかったわ……」
景子は、少し悲しげに声を落とした。
□
ドアのカウベルが鳴って男が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
景子は洗い物の手を止めて顔を上げた。
「やあ、久しぶり」
商売柄、客の顔を覚えるのは得意である。しかし直ぐには誰だか分からなかった。かなり昔にまで遡って記憶の糸を手繰る。少し間があったが『やあ』に合わせて左手を胸の横まで上げる癖を思い出した。もう二十年以上会っていない。
「えっ、サブさんなの。随分と、お久しぶり。お元気でした?」
「まあね。冷コ、もらおうかな」
「まあすっかりスマートになって。見違えたわ」
サブは細くなった体を難儀そうにカウンターのイスに持ち上げながら、
「景子ちゃんは変わらないね」
と言った。景子は曖昧に笑う。サブは話しながら店内を嘗めるように見回した。
「今は何をなさっているの?」
景子はアイスコーヒーを作る手を休めずに尋ねる。
「そんな改まった言い方は止めてくれよ。昔のままでいいよ」
景子が黙って頷くとサブは、
「国語の先生だよ」
と県下の有名な進学校の名をあげた。
「まあ、すごいわね」
と言いながらアイスコーヒーをサブの前に置く。サブは一口飲んで、
「まだ、やってるの?」
と壁に貼られたライブのポスターを指さしながら尋ねた。
「月に二回ほどね。でも、あの頃とはずいぶん変わったわね」
景子は壁の色褪せた写真を眺めて目を細めた。サブがリーダーだった『ジェイQ』と言う名のジャズバンドの写真。解散ライブの後に撮った。景子もちゃっかり真ん中に収まって写っている。サブはグラスを持ちながら景子の視線を追った。
「あの時、景子ちゃんに『どうしてプロを目指さないんだ』って、どやされたっけなあ。あれは堪えたけど、小気味よかったなあ」
「いやねぇ。忘れたわ」
サブはそれから一時間近く、バンド時代の思い出話と自分が顧問をしているという軽音楽部の話をして帰っていった。
□
「私ね、サブさんが自分のことを、ちっとも話さなかったことに気づいたの。昔は、周りが辟易するぐらい、いつも一人称だったのに。自分も含めて、みんな三人称だった」
「サブが、そんなことを」
「そう。寂しいわね」
「そうだな」
景子はその時のことを思い出したのか声を詰まらせた。
「去り際にね、サブさん、ドアの前で立ち止まって、見納めのようにもう一度店内をじっくり見回して帰ったの」
景子はそれが喉に引っ掛かった小骨みたいにずっと気になった。
「今にして思えば、思い出に別れを告げに来たのね」
景子は電話口で声を詰まらせた。
■
通夜は夕方六時からだった。石井は駅で出迎えてくれた景子と連れだって斎場までタクシーを飛ばした。
着いた時には葬儀は始まっていた。
遺影にはだいぶ前に撮ったらしい写真が使われていた。いつもは意識さえしない死が、今、私の目の前に横たわっている。まさかかつての仲間を送ることになろうとは夢にも思わなかった。
白い棺。その上に載せられた、白い帽子。
――過ぎた夏の、忘れ物みたいだな。
ふと何の脈絡もなく、そんな場違いな思いが浮かんだ。髪が薄くなったのを気にしてか、よく帽子を被っていたそうだ。
石井は、景子に続いて焼香を上げた。この所作ばかりは何回やっても緊張する。慣れることができない。慣れたくもない。顔を上げて遺影と向き合う。
もう二十年以上前になる。石井が退学届けを出した日。あの時サブがふと見せた、悲しげな光を宿らせた目が脳裏に焼き付いている。
焼香を済ませて一礼して去ろうとすると返礼する老婦人が視野の片隅に入った。サブの母親だろう。景子から教師をしていたと聞いた。悲しみの中にあっても凛とした態度にその片鱗を窺わせた。父親は早くに亡くなったと聞いていた。
一礼して去った。
二人は焼香を済ませてホールに戻ったが、場を占めているのは学校関係者がほとんどで居場所を見つけられずに外へ出た。
それを見計らっていたかのように斎場の左手にある駐車場の片隅から大きな二つの影が近づいてきた。
「よう」「うっす」
同時に発せられた二人の声を、石井は瞬時に聞き分けていた。酒とたばこで壊滅寸前の石井の脳細胞だが、古い記憶に関しては満更でもないようだ。
灯りの下で二十数年ぶりに見る顔には時の流れが刻まれている。
「マーシーに、ジョージか」
咄嗟にバンド時代の呼び名が出た。
「入るところが見えたから、待ってたんだ。久しぶりだな」
二人が上向きに出した手のひらを上から叩いて、その後石井が出した手のひらを彼らが叩く。景子が持ち込んだ挨拶はまだ有効だ。
マーシーが手を伸ばす。優男の面影は今も残っていた。石井はがっしりと握手を交わす。その後ろにジョージの日に焼けた厳つい顔と節くれ立った手が見えた。
灯りの下で何年かぶりに見る顔には時の流れが刻まれて、変化が著しい頭髪には苦労の後が見える。が、同時に屈託のない笑顔には、この地にしっかりと根を下ろし着実に重ねてきた人生への確かな自信も窺えた。
「この通り、随分白くなったよ」
「お前はあるだけいいよ。俺なんか、これだからなあ」
ジョージは寂しくなった頭をつるりと撫でた。
「変わらないのは、ママだけだよ」
「あらあら、そんなに褒めてもらっても何も出ないわよ」
ひとしきり近況を交換した後は昔話に花を咲かせる。ネタは尽きることがなかった。
「プー、活躍はママから聞いているよ」
ジョージは景子を振り返った。
「活躍なんて言われると恥ずかしいが、まあ細々と長らえているよ。そういうジョージだって、今じゃあ社長様だそうじゃないか。ここらへんも、めっきり貫禄が出てきたし」
石井が、ダブルの礼服が弾けそうな腹にボディにパンチを叩き込む真似をすると、ジョージは体をくの字にして応じた。
「ただ、親父の仕事を継いだだけさ」
「まあ謙遜ばっかり。その後、ジョージさん、随分事業を拡げたのよ」
「俺も、たまに仕事を回してもらってるんだ。助かってるよ」
マーシーが頭を掻きながらぼそりと、
「賃金が安いとか人使いが荒いとか、文句は山ほど聞いてるが、お前の口から感謝の言葉なんて初めてだな」
「日頃から感謝してるんだ。改まってとなると、なかなか言い辛いがなあ」
「俺も、お前だと安心して、仕事任せられるからな」
通夜が終わって斎場の入り口付近がざわついてきた。帰る人たちが、駐車場の脇で声高に談笑している輪に向けて非難の視線を投げる。景子が気づいて、
「もう少し声を落として。睨んでいる人もいるわよ」
と小声で注意する。懐かしさにかまけて周りへの配慮が疎かになっていた。
「この歳になると、こういう機会でもないとなかなか会えなくなってね。不謹慎だとは分かってても、つい顔が綻んでしまう」
石井が頭を掻く。
「でも、こうやって散り散りになっている人々の心を掻き集めるのが、人間としての最後の仕事かもなぁ」
マーシーの声が沈んだ。
「ねぇ、サブさんの追悼ライブやろうよ」
重くなりかけた空気を振り払うように景子が提案した。石井に異存はない。しかしジョージとマーシーは二の足を踏んだ。景子は二人の目に再びステージに立つことへの喜びと同時に不安を見た。無理もないと思う。しかし景子は、
「何よ、二人とも。随分弱気じゃない。昔取った杵柄だもの、練習すれば何とかなるわよ。ねえやろうよ」
と殊更軽い口調で誘った。未だに彼らは、お釈迦様の手のひらの上で、いきまく孫悟空だ。景子は、どこを押せばどう動くか、知り尽くしている。そして同時に、その効果のほども。
「わかった。俺の方は、いいよ」
ジョージはあっさりと同意しながらも、
「だけどプーは俺たちがメンバーでいいのか?」
と石井にちらっと目をやる。
「当たり前だろ。昔の仲間でやることに意義があるんだ」
石井が答えた。マーシーはまだ迷っている。ジョージはマーシーの肩を軽く叩いた。目が合うと小さく頷く。ようやくマーシーも首を縦に振った。
「でも、練習する時間はほしいな。せめて二ヶ月ぐらい」
「当然よ。じゃあ、決まりね。それでは」
景子が手を出して石井がその上に手を乗せる。さらにジョージとマーシーが重ねて円陣を作った。
「小さな声でね。サブさんの追悼ライブ、やるぞー」
景子が音頭を取る。
「オーっ」
四つの声が重なった。
「この後、どうだ」
石井はグラスを傾ける真似をした。このままホテルに帰って長い夜を一人で過ごしたくない。
「いいわね」
景子も乗り気でジョージとマーシーを誘う。マーシーが賛同の口を開きかけた時、ジョージに遮ぎられた。
「折角だけど、俺たち、明日の朝、早いんだよ。俺たちに構わず、二人で行きなよ」
ジョージはマーシーの考えも聞かずに断った。
「何だよ、俺たちって。勝手に決めるなよ」
マーシーは口を尖らすが、ジョージは腕を取って強引に引っぱって行く。
「じゃあ、ライブで。ママ、連絡、待ってるよ」
門を出る時、ジョージは片手でメガホンを作って叫んだ。マーシーは尚も上半身を捻って振り返っている。名残惜しそうな顔を見せている。
「おかしな人たちね」
二人を見送りながら景子が笑った。
「余計な気を遣いやがって」
小さくなった影が未だ揉めている。景子は見えなくなるまで手を振っていた。
<続く>