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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】『クール・ストラッティン』、再び (6/8)

主な登場人物
石井健一(プー):ジェイQの元メンバー。サックス担当。プロのサックスプレーヤー。
川口景子(ママ):ライブハウス『ジョイ』の経営者。
笠井三郎(サブ):ジェイQの元メンバー。ピアノ担当。ガンのため死亡。
安田久雄(ジョージ):ジェイQの元メンバー。ドラムス担当。安田運輸株式会社社長。
米田正志(マーシー):ジェイQの元メンバー。ベース担当。トラックの運転手。運輸会社勤務。

6.挫折と再起

「それはそうと、結婚はしたの?」
 唐突に景子が尋ねてきた。
「いや。昔チャンスを逃してね。待っていてくれと言うには、彼女は若すぎた」
「年齢って関係ある?」
 景子は口を尖らせた。
「いいや。だけど、その時はそう思って、言えなかったんだ」

 グラスを急速に回すと置き去りにされた氷が内側に沿って滑っていく。
「その人が待っているかも知れないとは、考えなかったの?」
 景子がグラスを揺する。あおられた氷がグラスにぶつかって湿った音を立てた。
「自負はあったさ。でも、言わなくて正解だった。その後、俺はドン底まで落ちて、醜態をさらして、愛想尽かされてしまっただろうからな」

「何で、そう決めつけるのよ。その人、何もしてあげられなかった、支えてあげられなかったって、悔やんでるかも知れないじゃないの!」
 景子はカウンターを叩いた。自分でも驚くほど大きな音がした。
「あっ、いや。ごめん。……でもね、そう思ってた人はいたと思う……」
 慌てて言いつくろったが、石井は打たれたように景子を見ていた。二人の間にしばし沈黙が流れた。
「多くの人達に、随分迷惑掛けた。あの頃の俺は、本当にどうしようもないくずだったからな……」

 石井の演奏は、新しく参加したバンドでも注目を集めた。バンドは全国ツアーとコンサートに明け暮れていた。

 しかし石井が脚光を浴びていた時間はそれほど長くはなかった。五年もしないうちにジャズブームは潮が引くように去ってしまった。
 一旦潮が引き始めると、俄仕立にわかじたててのファンは足が遠のいてしまうし、昔からの耳の肥えた客は荒さが目立つ演奏には見向きもしなくなった。
 それに連れて石井のスケジュールも空白が目立つようになり、二ヶ月もするとほとんど真っ白になった。

 ブームなんて、そういうものかも知れない。誰が吹いたかも知らない笛に踊らされて、祭りが終わってみると、後に残ったのは気怠けだるい疲労感だけだった。
 石井は苦難の時代を迎えた。こうなると他のメンバーの選択が正しかったといえるかも知れない。だが不思議と石井に後悔の念はなかった。
 そして無聊ぶりょうを慰める日々が続き、それに比例するように酒の量が増えていった。

 石井はステージに立っていた。『クール・ストラッティン』を演奏している。石井は違和感を覚えた。音が聞こえないのだ。リードの振動は感じるが、サックスの音色が聞こえなかった。だがピアノは何事もないかのように演奏を続けている。
 ピアノが顔を上げた。サブだ。あー、よかった。『ジェイQ』のライブだ。しかし安堵あんどする間もなく、サブはソロを渡すと合図してきた。石井は慌てて首を横に振るがサブに届かない。
 スポットライトが石井を浮かび上らせる。やはり音は出なかった。焦るほどに指さえも動かなくなる。終いにはどうすれば音が出せるのかさえ分からなくなった。途端に全身からいやな汗が噴き出してきた。早く気づいてくれ。誰か助けてくれ。心で叫ぶ。

 そんな苦悩をよそにサブは控え室に消える。ジョージもマーシーも続けて去って、ステージには石井だけが残された。客席が騒然としてきた。肺が破けそうになるほどの力をこめてサックスに息を吹き込む。だがリードはピクリとも震えない。突然マウスピースが吹き飛んだ。慌てて拾おうとするとキーボタンがポロポロと落ちる。しゃがんで掻き集めようとすると、本体までが落ちて派手な音を立てながら壊れた。
 引っ込めー。へたくそ。やめちまえー。金返せ-。多数の唇が罵声(ばせい)を浴びせながら石井の周りを飛び交う。赤く光る三組の目がじっと見ていた。

 うわーっ。叫び声と共に飛び起きて、悪夢はいつもそこで終わる。寝汗がシーツまで濡らしていた。

 自分の中で何かが壊れかけている気がした。り場のない不安と苛立ちを酒で紛らす生活。目覚めたときは見慣れぬ路地で反吐へどにまみれていたこともあった。その後に襲ってくるひどい自己嫌悪。それから逃げるため、また酒を浴びる。そんな日を繰り返していた。

「その夢は、まだ見るの?」
「たまにな」
 夢の中の『クール・ストラティン』は石井の旅立つ日にサブが部室で弾いていた、それだった。あの時のメロディは覚えていないのに、なぜか分かった。あの日以降石井はこの曲を一度たりとも演奏していない。
「罵声を浴びせる唇は、『ジョイ』の客で、赤く光る目はメンバーだな。『ジェイQ』を解散させた俺を良くは思っていないのさ」
「それは考え過ぎなんじゃない。みんな、不完全燃焼しているだけだと思う。私だって、もやもやしたもの、感じてたから」

 石井は、景子が出し抜けにサブの追悼ライブをやろうと言い出した気持ちを理解した。
「プーさんだって大変な思いしたんだもの。そんなに自分ばかり責めないで」
「自業自得さ。あっ、もしかして、お前、何か聞いていたのか?」
「ええ。お母さんが、お店に見えたの。ブームが終わって、プーさんがどうしてるか心配になって、上京したんですって。社長から、プーさんの現状を聞かされて、何の力にもなれなくて、すごすご帰ってきたっておっしゃってたわ」

「まったく余計なことを」
「お母さんね、マスターに必死で頼んでいらっしゃったの。『あの子が、のこのこ顔を見せたら、追い返してくれ。苦しいだろうけど、ここで頑張って踏み留まるか、止めるやめるにしても自分できちんと決断しないと、一生負け犬になってしまうから』って。私の耳のも入ってきて……。でも小娘には、どうしたらいいか分からなくて……」
 景子は皮肉っぽく『小娘』に力を込めた。
「そう、あの頃がホント一番きつかったよ……」

 その日も、石井はいつもの店で昼間からグラスを傾けていた。男が入って来た。マスターは
「いらっしゃい……」
 と言いかけて石井の方を見る。先月から石井の担当になったマネージャーの松本だった。石井は小さく頷いた。松本は黒い皮のコートを着たまま近づいてくる。
「何か用か?」
 今月のスケジュールもまっ白のはずだ。石井が充血した目を向けると、
「随分、探しましたよ」
 と松本は体を反らして酒臭い息を避けた。

「社長からの伝言です。明日朝10時、事務所に顔を出すようにとのことです」
 ついに来たかと思ったが、
「何の話だ」
 としらばくれた。
「私は何も知らされていません。詳しいことは、直接、社長から聞いて下さい。確かに伝えましたよ。あっ、それから酒は抜いていった方がいいですよ」
 松本は鼻をつまむマネをしながら店を出て行った。

 石井は作ってもらったばかりの水割りを手に持ってしばらくもてあそんでいたが、口を付けないままカウンターに戻した。

 次の日、約束の時間より早く事務所に着いたが、社長と専務はとっくに来ていると受付にいた娘が教えてくれた。まだ少し早いかなと思いながらも社長室のドアをノックした。社長は机に書類を広げ、社長夫人でもある専務が横から覗き込んでいた。

 石井が机に近づくと二人はそろって顔を上げた。
「石井、しばらく田舎でゆっくり体を休めたらどうだ。お前、上京してから一度も帰省していないだろう」
 社長は開口一番そう言った。
「それはクビってことですか?」
 覚悟はしていたつもりだったが『クビ』の所でつい声が大きくなった。

「そうじゃない。自分でも分かっているだろうが、今のままじゃ、じきにアル中だ。実力はあっても、酒や薬で身も心もボロボロにして、消えていったヤツを、俺は何人も見てる。お前には、そうなってほしくないんだ」
 横から専務が厚みのある封筒を机の上に置き、石井の方へ滑らせた。
「プーさん。これ、餞別せんべつね。お正月にはちょっと遅れたけど、のんびりしてらっしゃい。間違っても飲み代に使っちゃダメよ」

 クビを宣告されても文句は言えなかった。それなのに未だ気に掛けてくれている。石井は、社長の優しい言葉が身にみて、常務の気遣いが嬉しくて、封筒を押し戴くように受け取ると額に押しつけ、流れる涙もそのままに頭を下げ続けた。

 社長の言葉に従って帰郷の電車に乗ったものの、石井は具体的に何をどうすればいいのか分からなかった。かといって、このまま実家に帰る気にもなれなかった。

 無性に景子に会いたくなった。
 石井は駅に着くなり真っ直ぐ景子のアパートに向かった。日はうに落ちて窓から灯りが漏れている。それがとても暖かく思えた。
 石井は居ても立っても居られなくなってチャイムを押した。

 ドアの前に立っていた石井を見て、景子はぱっと顔を輝かせたが、直ぐに戸惑いの色を見せた。
 石井の母親の話を聞いてからというもの、景子の気持ちはずっと揺れ続けていた。負け犬でもいいから自分の元に戻って来てほしいという思いと、再び輝いて欲しいと願う気持ち。どちらを取ってもどの道後悔するだろうという気がしていた。

 石井は景子が欲しかった。欲望の海に漂い溺れて、一時でも全てのことを忘れたかった。何も言わず景子をきつく抱きしめた。景子は木偶でくの坊みたいに突っ立ったままだった。コートを脱ぐのももどかしくベッドに押し倒したが景子は少しもあらがわなかった。
 服をたくし上げ乳房を露わにした時、景子の口から
「ううっ」
 と声とも息吹とも付かぬ小さな音が漏れた。

 ふと石井が顔を上げると、景子の固く閉じた目尻から一筋の涙が流れるのが見えた。はっと我に返った。
 景子の流した涙の意味に、石井は気づいた。
「すまない」
 景子は肩を震わせた。
 ――もう少しで、かけがえのない人を、失うところだった。
「すまない」
 景子は手で顔をおおった。嗚咽おえつが漏れる。
「今の俺には。お前を抱く資格がない……」
 景子は肩を震わせ声を上げて泣き出した。

 石井はベッドから下りた。ベッドの枠にもたれて座って、景子が落ち着くのを待った。
 しばらくして服の乱れを直した景子が起き上がる気配がした。
「しばらくこのまま、ここに居てもいいか」
 景子は小さく頷いて石井の横に座った。

 再びの長い夜だった。
 触れ合う肩の温もりが救いだった。それは、いつも逃げてばかりいた悪夢に向き合う勇気を与えてくれた。

 石井はブームに浮かされて足元を見失っていたことに気づいた。
 うまく吹こうなんて考えるから、音が出ないんだ。指が動かないんだ。ただ溢れ出る魂の叫びを音にするだけでいい。やれないんじゃない。やるための準備ができていないんだ。技術が足りないからなんだ。

 やっと長く暗いトンネルの出口が見えた、石井はそんな気がした。

「俺はもう一度やり直してみる。どうなるか分からない。だからまだ何も約束できない」
 景子は首を横に振る。
「すまない」

 窓の外がほのかに明るくなって来た。


 石井は朝一番で東京に戻るなり事務所に直行した。社長を訪ねて、
「二年、いや一年間でもいい、音楽学校に行かせてもらえませんか。基礎からやり直したいんです。もう一度チャンスをください。お願いします」
 と頼み込んだ。土下座して床に額をこすりつけた。
「私からも、お願い」
 専務が後押ししてくれた。

 石井の新たな音楽生活はこの日から始まった。

「何てことはない、後になって専務が教えてくれたんだが、もう時効よねって笑いながら、『社長はクビを言い渡す代わりに、田舎に帰って少し休めと言うのよ。餞別は退職金代わりね。そうやって送り出すの。戻って来たの、プーさんが初めてよ』だってさ。全く人を馬鹿にしているよ」
 石井は破顔した。
「プーさん、やっと笑った」
「そんなことないだろ」
「ううん。今日初めてよ」
 景子は頬を緩ませる。
「その後は、どうしてたの?」
「音楽学校卒業した後は、また事務所に戻って、それからは今日までずっと音楽だけさ」

 何杯目か分からなくなっている。
「酔ったかな」
 口ではそう言ったが頭の芯は妙に覚めていた。石井はグラスを置く。
「泊まっていく?」
 景子はグラスの表面に着いた水滴がカウンターに作った水たまりで指遊びしていた。グラスの氷はすっかり解けてしまっている。
「いいのか?」

 石井は顔を向ける。仄かに上気した頬。少し潤んだ目が頷いた。石井はゆっくり息を吐いた。
「いや、今夜は止めておこう。サブに見られているみたいだ」
「意気地がないのね」
「ああ、死んじまった奴には勝てないさ」
 石井はグラスを掴んで残りを喉にぶち込んだ。氷が前歯に当たってコツンと鈍い音をたてる。

「もう少し待っていてくれないか」
 やっと言えた。
「生ものだから、早めにね」
 気の利いた返しだった。


 外に出ると通りは夜の底で森閑としている。雨は上がっていた。

 このままホテルに行っても眠れないのは分かっていた。

 石井は意地を張ったことを後悔しながらホテルに続く暗く長い道を歩いた。

<続く>


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