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【短編】雨宿り

(4,568文字)

 昨日、山本美枝子は玄関の天井に雨漏りの跡を見つけ、梅雨入りの前にと馴染みの工務店に急ぎ修理を頼んだが、立て込んでいるらしく工事は再来週の火曜日からとなった。
 翌日曜日は、朝からどんよりして少し肌寒かったが、案の定昼過ぎからにわかに大粒の雨が降り出した。美枝子は心配になって玄関の様子を見に来て、引き戸の磨りガラスに透けて見える人影に気づいたのだった。

 以前はこの界隈も道沿いに似たような造りの家々が軒を並べ、ひさし伝いに歩けば雨に濡れずにすんだものだが、この頃は建て替えが進み、昔ながらの家並みは減る一方だ。そんな中にあって、美枝子の家は数少ない昔の造りで、道路にかぶさるように軒が出ている。
 どうも誰かが雨宿りしているらしい。きゆうしているのはわかるが、家の前にずっと立たれていては、近所の手前もある。美枝子は小さく戸を引き、とがめるような口調にならないように気を付けながら声を掛けた。

「何かみご用ですか?」
「あっ、どうも済みません。急に雨に降られてしまって、断りも入れずに軒先をお借りしていました」
 男は振り向き様に自分の非礼を詫びて、水滴を拭き終えた眼鏡を掛け直した。美枝子は一目で真面目そうな人柄を見て取った。若者は一礼して雨の中へ出て行こうとする。
「待って。当分止みそうもないし、こんな日に濡れそぼったら風邪かぜを引きますよ」

 美枝子は三和土たたきの傘立てに目をやる。そこには、この間まとめてゴミに出したにも関わらず、すでに三本のビニール傘が刺さっていた。長男の貴之の仕業らしい。貴之は雨の度に駅前のコンビニで傘を買ってくる。もったいなから止めるように、美枝子が口酸っぱくたしなめても直らない。
 美枝子は小さく溜息をいて、その中から一番程度が良さそうな物を選んで、男性に渡した。

「これを使って」
「ですが……」
「遠慮しないで。困った時はお互い様よ」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて。傘は明日お返しに上がります」
「いいのよ、持っていってくれたら、私も助かるのよ。差し上げますって程の物でもないから、お礼を言われると返って恐縮だわ」

 若者は傘を受け取ると、深々と頭を下げて、立ち去っていく。
 美枝子は、ずり落ちそうなカーディガンを引き上げながら、角に消えるまで男の姿を見送った。


 次の日の朝。まだ昨日の雨が残っている。
「お母さん、私の傘を知らない?」
 佳純かすみが玄関から声を上げる。
「何よ、朝から大きな声を出して」
 エプロンで手をぬぐいながら、美枝子が姿を現した。
「ビニール傘をここに置いていたんだけど」
 佳純は傘立てを指さした。

「あっ。もしかして薄いピンクのの?」
「そう。買ったばかりで、お気に入りだったんだから。八千円もしたのよ」
 美枝子は目を丸くした。
「えっ、そうなの? それ、昨日、困っている人がいて……」
「貸したの?」
 美枝子はこくりとうなずいて、手短にいきさつを話した。佳純の顔が段々こわっていく。

「そこの眼鏡屋さんの紙袋を下げていたのよ」
 ここS市は眼鏡で有名な街で、特注して自分だけの眼鏡を作ることもできる。母の言う眼鏡店もそういう店の一つだった。
「とても感じのいい人でね、私が二十、いいえ二十五歳若ければ……」
「それで?」
 佳純は脱線しそうな母の話を言葉少なにさえぎる。
「でも、確か……」
 美枝子がくちもる。明日返すと言う男性に、持っていってくれたら助かるからと断ったことを思い出したからだ。
「確か、何?」
「ううん。何でもない。ごめんね。そんな高いものだと知らなかったの。弁償するわ」
「もういいわよ」

 佳純は別の傘を手に、雨の中へ飛び出して行った。
 ――でも、もしかしたら。
 美枝子は、その日ずっと気に止めていたが、若者が姿を見せることはなかった。


 ある夏の日の昼下がり。
 おとないを入れる声がインターホンから流れた。佳純は階下をうかがったが、美枝子の気配はない。
「お母さん、お客様よ」
 声を掛けてみたが、やはり返事はなかった。どうも外に出ているらしい。
 佳純は一階に駆け下りた。

「どちら様でしょう?」
 佳純はインターホン越しに尋ねた。
「私、田村靖彦と申します。この間お借りした物をお返しに上がりました」
「はい?」
 佳純には意味が取れない。
「二ヶ月ほど前になりますが、ビニール傘を貸していただいて……」
 それで先日の母の話を思い出した。珍しく母がその人をめていたことも。

「はい。ただいま」
 佳純は、姿見でざっと服装を確認した。ふだん家ではスエットのトレーナーとパンツで、化粧はほとんどしていない。母は、もっと女性らしい格好をするようにと口っぱく言うが、佳純はこの方が動きやすいからと聞く耳を持たない。
 今さら着替えることもできないが、それでも今日に限ってGパンに白いTシャツという割とこざっぱりとした格好でいたこと、かつ薄く紅を差していたこと、その二つの偶然に感謝した。手櫛で素早く髪をかした。

 田村は、現れた佳純におやっという顔を見せたが、
「先日対応いたしましたのは、母です」
 と言うと、納得するように小さくうなずいた。田村は傘の謝礼を述べた後、細長い包装を差し出した。それを見て、佳純はいぶかしげな顔をした。
「先におびします。事情がありまして、お借りした傘そのものではありません。しかし記憶を頼りに同じようなものを探して、ようやく見つけることができました。これでお許し頂けないでしょうか」
「許すも何も、母が差し上げたものですから、お気になさらなくてもよろしかったのに」
「いいえ、そうはいきません。安い物ではないと分かっていましたから」

 一緒に手渡された小さな紙袋には、佳純が傘の握りにくくり付けていた飾りが入っていた。佳純の頬が緩む。
「遅くなって申し訳ありませんでした。お母様にもよろしくお伝え下さい」
「あの、もし差し支えなかったら、その事情というのをお聞かせ頂けませんか?」
 佳純は暇を告げる田村をとつに引き留めた。もう少し話してみたいと思ったからだ。
「それは構いませんが、私は話が上手くないので、退屈なだけかも知れません。それでもよろしければ……」

 上がるよう勧めたが、田村が固辞したので、佳純は上がりかまちに膝を突いた。
「傘は翌日お返しするつもりでしたが……」
 佳純は時々あいづちを打ちながら耳を傾けた。


「あっ、またビニール傘。貴之ね。もう何度言ったら分かるのかしら!」
 外から戻った美枝子が玄関で息巻いている。佳純はいそいそと母を出迎えた。
「それ、お母さんが貸した傘よ。正確にはそれと同様の品だけどね」
 あっ、そう。返事をしたものの美枝子はすっかり先日のことを失念していた。
 佳純は居間へ移動しがてら、昼間のことを美枝子に報告した。
「事情があって、返すのが今日になったそうよ」

 次第に美枝子の記憶も戻ってきた。
「あら、りちな人じゃない。益々気に入ったわ」
 美枝子は紅茶を入れて、ソファーに座った。田村の手土産だというお菓子をほおりながら、
「じゃあ、私もその事情とやらを、私も聞かせてもらおうかしら」
 と美枝子が水を向けると、佳純はコーヒーカップを手に話し始めた。
「その方、田村さんとおつしやるのね。それで、その日、眼鏡を受け取った後、この辺りの家並みを見ながらぶらぶらしていたところで、にわか雨にったらしいの……」

 田村は数年前に作ってもらった眼鏡を修理に出していた。その受け取りも兼ねて、三日間の予定で観光に来ていたのだった。
 しかしその初日の夕方、ホテルに急を要する連絡が会社から入った。
 それは、田村が入社後初めて担当した東南アジアの顧客からで、『機械が故障して、生産が止まって困っている。直ぐに直してほしい』という切羽詰まった依頼だった。
 田村は予定を全て取り止めて、翌日現地へ飛んだ。

 機械は二十年程前の物で、保守契約の期間は既に切れていた。しかし田村は困っている顧客を前に、何もしないで帰ることはできなかった。故障の原因を特定し、破損した部位を突き止めた。部品の在庫はうになかったので、会社から図面をメールで送ってもらい、現地の工場で大至急造ってもらった。部品を交換し、装置を調整して、一週間後には再稼働させることができた。

 感激した社長は、田村が帰国する前に、自宅に招いてくれた。社長夫人は会食の席で、田村が持参していたビニール傘にいたく興味を示した。田村はそれに応えて、「この傘は、この眼鏡もそうですが、壊れたら修理して、また使うことができます。私は気に入った物は大切に長く使い続けたいと考えています。コストパフォーマンスがいいというのは、そういうことではないでしょうか」と暗に自社製品をも宣伝した。今回のトラブルで身を以てそのことを実感した社長は、最新型を二台注文してくれたそうだ。

「傘は、奥様に請われて差し上げたそうよ。玄関にあったのはその代わりだって」
「じゃあ、それって、私のお陰じゃない」
「えっ? どういうこと?」
「だって私が貸さなかったら、社長さんのお眼鏡にかなうこともなく、結果として機械を受注できなかったかも知れないじゃないの」
 母も母なりに傘のことは気にはしていたらしい。しかし風が吹けば桶屋がもうかる的な言い方には同意できない。

「でもそんなの、ただの後付けじゃない」
 見ると、美枝子が鼻をひくつかせている。どうも笑いをこらえているようだ。
「何? どうかしたの?」
「あなた、分からなかったの? ほら、『貸さなかったら』と『傘、無かったら』。『お眼鏡に適う』は、お眼鏡と眼鏡。ねぇ、どう?」
「私の話はそっちのけで、そんなこと考えてたの?」
 あーあ、いやだ、いやだ。佳純は顔をしかめる。

「失礼ね。ちゃんと聞いていたわよ。それで、田村さんの連絡先は教えてもらったの?」
「まあね」
「その人をしっかり捕まえておくのよ。きっと佳純のことも長く大事にしてくれるわよ」
「そんなこと、勝手に決めつけないでよ」
 佳純は頬を膨らませた。
もつとも私の眼鏡に狂いがなければだけどね」
 もう、くどい。
 佳純はそっぽを向いた。美枝子は、そんなことなどどこ吹く風、改心の一打とばかりに満面の笑みを浮かべている。


 さて田村は、今回の功績に対し会社から報奨金が出たそうで、先回お釈迦になった休暇を取り直して、今日から三日間で観光のやり直しをすると言う。それならばと佳純は明日からの案内役を買って出た。
 でも、佳純はまだそのことを母には話さない。そうと知ったら、母はかさにかかって口を出す。
 ――あっ、『傘』と『嵩』。あらっ、ちょっといいんじゃない。
 思わず頬が緩みかけたが、直ぐに頭を激しく振る。あーあ、いやだ。この頃、こんな所まで母に似てきた。

 やはり、報告はもう少し先延ばしよう。


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