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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】リスト (10-1)

10.

<平成二十六年十一月中頃>

 金曜日の夕方。都築次郎が山村精一を飲みに誘った。
 駅で待ち合わせた。久しぶりに会った精一は顔に疲れが見えたが、都築にはそれが消魂によるものではないと分かった。
「少しは気持ちの整理は付いたかい?」
「いや、まだだ。お前には世話を掛ける」
 精一は頭を下げた。
「よしてくれよ。会社のことは俺に任せて、しばらくはのんびりしてていいよ」

 駅の南口から少し歩いて住宅街に入った。
「どこまで行くんだ? 俺は駅前の赤ちょうちんで十分だよ」
たまには、いいじゃないか。もう少しだ」
「ここだよ」
 一般の住居みたいな店だった。『たちばな』といった。

「女将、初めてだったな。こちらは山村精一さん。山ちゃんだ。女将の橘明美さんだ」
「明美です。今後ともお引き立てのほどお願いいたします」
「取り敢えず、生ビールの大を二つ」

 女将がお通しとジョッキを二つ運んできた。
「後は、適当にやるから……」
 都築が女将に目配せすると、「ごゆっくり、どうぞ」と部屋を去って行った。

「この所、人捜しが忙しくてよ」
 精一はぐいっと一口飲んで喉を潤すと唐突に切り出した。
「人捜し?」
 ああ。精一は、これまでの経緯を簡単に説明した。
 都築は話に出た山下という名に覚えがあった。美枝子に頼まれた手紙の宛名が確か山下幸子だったと思い出した。

「その元の手紙、ミエちゃんに頼まれて、俺が出したんだ」
「何だって? あいつが頼んだ? どういうことだ?」
 精一は畳みかけた。
「山ちゃん、俺、ミエちゃんの病気のこと、知ってたんだよ。話してくれたんだよ」
「何だと。何故そのことを俺に黙ってたんだ」
 精一は都築に詰め寄った。
「ミエちゃんは、山ちゃんが変な気を起こさないようにするための、おまじないだって言ってたよ」

 精一は都築の胸ぐらを掴み引き寄せる。
「殴れよ。さあ、気が済むまで殴ってくれ」
 精一の右の拳が引かれる。都築は歯を食いしばって目を閉じた。だが、いつまで経っても衝撃は来ない。都築は薄目を開けた。精一の拳が都築の目の前で震えている。
「そんなが抜けたような山ちゃん、見たくないよ」
 ちくしょう。声と同時に精一の拳が目の前に迫ってきた。避けられぬ程の速さではなかったが、都築はそれを甘んじて受けた。左のほおに衝撃が来た。頬より心が数倍痛んだ。

 ちくしょう。ちくしょう。精一はずるずると崩れ落ちた。
「そうと知っていたら、あいつにしてあげたいことが山ほどあったんだ。言いたいことも山ほどあったんだ」
「山ちゃん……」
「なぜ、お前なんだ……」
 精一は自分の桃を拳で何度も叩いている。

「ミエちゃんが言うには、辛い時は黙って話を聞いてくれる人が必要なんだそうだ。でもそれは家族や赤の他人じゃなく、夫の親友ぐらいが丁度いいらしい。それが俺ですまん」
「……」
「そこの席だよ、美枝ちゃんが座ってたのは」
 精一がはたと顔を上げる。

「駅前で美枝ちゃんに会ってな。今でもはっきり覚えているよ、五月三十日だった……」

 美枝子は三田病院の帰りだった。普段使うバス停のある駅北口ではなく南口に下りた。少し離れた所にある小さな公園のベンチに腰掛けて伸びてい行く影を眺めていた。
 ――あの人に、何と言おう。
 まだ病院を辞めたことも、病気のことも話していない。娘の亜希子には告知を受けた後すぐに話したものの、夫の精一には今日こそ明日こそと思いながら先延ばしにしていた。

 先程の、主治医の三田院長との会話が美枝子の脳裏をよぎる。
「手術はできないから、放射線と抗癌剤での治療になると思います」
「先生、私、治療を受けない選択をしようと思います」
「それは大変な覚悟が必要ですよ」
「私も看護師ですから、末期ガンの患者さんを何人も見ています。その辺のところは分かるつもりです」
「でも端で見るのと、いざ自分が体験するのとでは雲泥の差がありますよ。もっとも、そう言う私もガンの痛みは経験ないですけどね」

 ――こんなはずじゃなかったのに。
 西の空を赤く染めて、日が落ちようとしていた。
 ――あと何回こんな風景が見られるのだろう。
 愛でる人がいなくても、春になれば花がほころぶ。夏には草木は薫るし、秋が来れば木々は葉を落とす。冬には裸木が雪の衣を纏う。雨も降るし、風も吹く。
 そう思うと、何気なく見ていた景色がとても愛おしく感じられた。美枝子は歩を止めて空を見上げる。急に胸が熱くなった。こんな所で、誰に見られているかも知れない。泣いては駄目だと思えば思うほど涙がこみ上げてきた。

「どうしたんだい、美枝ちゃん? ぼうっとして」
 美枝子は背中から突然声を掛けられた。意表を突かれたが、それでもは声のする方を向く前に目元をくことを忘れなかった。
「あら、都築さん。今、仕事の帰り?」
 美枝子はばつが悪さを誤魔化すように明るい声を出した。都築次郎は、精一のかつての同僚で、奥さんが元気だった頃は二人でよく家にも行き来していた。気心も知れている。精一と同時期に退職して、今は精一と二人で会社を興している。

「まあね。それより、美枝ちゃん、大丈夫か?」
 美枝子は振り向く前に涙をぬぐったように見えた。都築は声を掛けた間の悪さを呪った。
「ずっと星を見ていたら、目が乾いちゃって。まばたきしてたら涙がでちゃったわ」
 美枝子は言い訳した。
「そうか、それならいいけど。何だか元気ないみたいだったから、山ちゃんとケンカでもしたのかと思ったよ」

 美枝子は小さく首を振った。
「山ちゃんは元気かい?」
「ええ、相変わらずよ」
「ならいいけど。山ちゃんにもよろしく。それじゃあ、また」
 美枝子は、立ち話だけで立ち去ろうとする都築を呼び止めた。

「ねえ、都築さん。これから飲みに行かない? どこか知っている店、連れっててよ」
 都築の顔がほころぶ。
「俺は構わないけど、山ちゃんは大丈夫なのかい? 後でどつかれるなんてゴメンだぜ」
「大丈夫よ。偶には私も飲みたくなるのよ」
「じゃあ、ちょっと歩くけどいいかい。空いているか聞いてみるから、ちょっと待って」
 都築は少し美枝子から距離を置いて、携帯電話を操った。
「大丈夫だ。じゃあ行こうか」
 いつも行く、気楽だが話もできないくらい賑やかな店は止めて、静かで落ち着いた店にした。

「都築さんと二人きりでお酒飲むなんて、初めてかしら?」
「そうかな。うちのが元気だった頃、うちで飲んだ以来かな。こうして二人だけだと、何だか照れくさいな」

 線路沿いに五分ほど歩くと、駅周辺の喧噪けんそうは消えて閑静な住宅街が広がる。
「ここなんだ」
 道路に面した塀に『たちばな』の屋号が彫られた金属の板がめ込まれている。ややもすると一般の住宅と見まごうほどだ。
「えっ、ここ? 普通のお宅に見えるけど」
「ここは趣味でやっているような店だからね。ほとんどが常連客だ。知る人だけが知ってるという店だよ。暖簾のれんも出してない」

「いらっしゃいませ」
 店に入ると女将が別室に二人を案内した。
「あら、お洒落しゃれなお店じゃない」
「俺も見かけによらないだろう」
「そんなことないわ。この店、よく来るの?」
「いや、いつもは駅前の赤提灯さ。だけどあそこじゃ、落ち着いて話もできないからね。今日はミエちゃんと一緒だから特別だよ」
「今度、うちの人も連れてきてあげてね」
「俺は構わないけどよ。山ちゃんは、こんな堅苦しい所より、赤提灯の方が好きだと思うぜ」
 そうね。美枝子が微笑む。都築は直視できずに視線を外した。話題を変えた。

「さっきの女将だけど、ミエちゃん、どう思う?」
 都築は声をひそめる。
「どうって、素敵な人じゃない。えっ、もしかして都築さんのいい人?」
 都築は頭を掻きながら、
「わかるかい」
「女はね、殿方の所作には、いつも目を光らせているのよ。長いの?」

「昔、本気で惚れて結婚しようと思ったこともあったよ。家内が死んで、五、六年経った頃だったかな」
「そう、都築さんの奥さん、若くして亡くなったのよね。やはり悲しかった?」
「うーん、どうかな。忘れたよ。娘を育てるのに手一杯でよ、そんなこと考えている暇なんかなかったような気がするよ」
「やっぱり娘さんのことがさわったの?」
「いや、あいつは気にしないって言ってくれたが、娘がね、まだ中学生で、難しい年頃だったからさ」

「今、娘さんは?」
「もう家を出て、一人暮らしさ。うるさいのがいなくなって、俺も気楽でいいよ」
「まあ、強がり言って。じゃあ、もういいんじゃない? 大手を振って娘さんに紹介すれば。この先、ずっと一人でいるのは寂しいものよ」
「でもよ、結婚なんてある意味勢いだからな。一旦落ち着いちゃうと、今ぐらいの距離が丁度いいって気もするんだよな」

「都築さんはそうでも、相手の人はそう思っていないかもよ。案外ずっと都築さんが言い出すの、待っているんじゃない」
「どうかな。そんなことはないんじゃないか」
「あら、女はそういうものよ。何だったら、私が聞いてあげようか? これも何かの縁だから」
 美枝子が腰を上げそうになるのを止めて、
「いや、いいよ。ホント止めてくれよ」
 都築は慌てて手を振る。

 そこに女将がビールとグラスを二つお盆に載せて入って来た。美枝子が女将に意味ありげな微笑みを送ると、女将は怪訝けげんな顔を隠しながらも笑みを返した。女将は都築に目で尋ねるが、都築は困った顔でただ頭を掻くだけ。そんな二人の無言のやり取りが、美枝子は少しうらやましかった。
 ごゆっくり、どうぞ。二人のグラスにビールを注いで、女将が出て行く。都築はその背を目で追っていたが、美枝子の視線に気づくと慌ててグラスを手にした。

「じゃあ、乾杯ってことで」
「お疲れ様」
 少し揶揄からかうような美枝子の口調に、都築は軽い調子で話題を変えた。
「悩んでいることや困っていることがあるんだったら、俺でよければ相談に乗るぜ。金も少しぐらいなら都合付けるよ。山ちゃんが浮気しているって話だったら、おっかないけど意見しに行くぜ」
「ありがとう。都築さん、優しいのね。でも、そんなのじゃないの」
 美枝子はビールを一気に流し込んだ。思わずむせる。

「おいおい、大丈夫か。何があったのかは知らないが、無茶は駄目だぜ」
 美枝子は飲み干したグラスをそっとテーブルに戻した。
「あのね。私ね、ガンなの」
 美枝子は視線を落としたまま、天気でも語るような口調で言った。あまりにすらっと美枝子が言うので、都築はしばらくその意味が掴めなかった。
「えっ、今、ガンって、言った?」
 都築は一語一語確かめるように聞いた。

<続く>

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