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【短編】通りすがり

(3,188文字)

「あのぅ、もし」
 昼下がり。通りすがりに声を掛けられた気がした。立ち止まって振り返ると、初老の婦人がたたずんでいる。見覚えは無い。
 気のせいか。
 立ち去ろうとする私を、婦人が今一度呼び止める。自分を指さして確認すると、小さくうなづく。

「何か?」
「あの、見ず知らずの人に失礼とは存じましたが……」
「はいっ?」
「……今の曲名を教えて頂きたくて」
「曲名、ですか?」
「先ほど口ずさんでいらっしゃった……」

 あーあっ。またやってしまった。
 頭をきながら、
「いやあ、お恥ずかしい。悪い癖なんですよ。家内によく叱られます」
 婦人は気にする様子もない。
「その歌、主人が好きだった曲ですのよ。だけど曲名が分からないから、レコードも買えなくって。あら嫌だ、今時レコードだなんて。CDですわね」
 そう聞かれても、思い出せない。

「どんな曲でした」
 彼女は私の鼻歌を真似てハミングする。
「ああ、分かりました。多分『 Tea for two 』という曲です。アート・テイタムというジャズピアニストの演奏が、私は好きです」

 さて、この状況を不審に思わないことはなかったが、詐欺のたぐいや怪しい宗教の勧誘ならもう少し気の利いたことを言うだろう。
 改めて婦人をよく見ると、身なりもよく、どことなく上品な雰囲気が漂っている。それに学生の頃憧れていたスナックのママに面影が似ている。私は無下に断れなかった。

 それに、ちょうど妻との約束の時間まで暇を持て余していたところだった。それに、こんな出来事はそうそうあるものではない。家内に話すネタにうってつけだ。渡りに船とばかりに、
「今からCDショップでも冷やかしてみようと思っていたところなんですが、ご一緒にいかがですか?」
と誘ってみた。
「よろしいんですか? ご迷惑では……」
「いいえ。家内と待ち合わせなんですが、未だ大分時間があります。お気になさらずに」

私が先を歩き、婦人が後から付いてくる。時々振り返ると、彼女は微笑む。

CDショップで、まっしぐらにジャズのコーナーに向かった。目当てのCDを見つけた。
「これ視聴できますか?」
 店員に頼み込んだ。軽いタッチの音楽が流れる。
「これでしょう?」
 婦人を振り返って、私は言葉を飲んだ。婦人の目から大粒の涙が溢れている。
「……そう……これです」

「じゃあ、これプレゼントしますよ」
「私、そんなつもりでは……」
「では、お返しと言っては何ですが、お茶を付き合って頂くというのは、どうですか?」
 私はもう少し話を聞いてみたいと思った。待ち合わせまでまだ二時間近くある。
「お茶ですか?」
「そう、『 Tea for two 』と洒落てみませんか」
 婦人は腕時計に目をやる。
「では一時間ほど。殿方と二人でお茶を頂くのは久しぶりだわ」

 婦人は話し好きで、語り口も巧みだった。
 婦人は熱海在住で、午前中は娘さんの案内で東京見物をした。娘さんは所要で一足早く帰ったが、婦人は夕方の新幹線の時間まで独りでぶらついていたのだそうだ。

 ご主人とは、会社の先輩に連れられて行った喫茶店で出会ったと言う。
 その店では、夜はジャズのライブ演奏が聴けた。ご主人はその日のライブにピアニストで参加していたそうだ。
 婦人はジャズを聴くのは初めてだった。groovyなピアノ演奏に魅入られて、それから足繁く通うようになった。その時は知らなかったが、演奏された曲が『 Tea for two 』だった。
 婦人の猛烈なアタックの末、半年後に結婚したそうだ。

 名前を聞いて驚いた。そのピアニストは私も知っている。好きな一人だ。テクニックには定評があった。
 だが確か数年前に病気で亡くなった。本当に惜しい才能だった。まさか目の前の婦人が、彼の奥さんだったとは思いもよらなかった。

 話が弾む。
 あっという間に小一時間が過ぎた。

「名残惜しいのですが、私はそろそろが……。本当に今日は何から何までお世話になりました。せめてここは私に払わせて下さい」
「そうですか。ではお言葉に甘えて……」
 私が席を立ちかけると、ハンドバッグ中を探していた婦人が、
「財布がない……わ」
 と青くなった。
「まあ……どうしましょう……」
 婦人は慌てふためいた。

「落ち着い下さい。ここまではどうやっていらしたんですか?
 婦人は、首から提げた透明なケースに入った切符を襟元から取りだして見せた。
「これがあると都内の電車、地下鉄、バスが乗り放題だからって、娘が買ってくれたんです」
 『東京フリーきっぷ』とある。私はこんな便利なものがあるとは知らなかった。
「なくさないように首から吊せって。酷いでしょう」

 少し落ち着いてきたようだ。
「食事代も娘が出してくれて……。それで私、まったく気づかなくて……」
 この実態を見せられれば、娘さんの心配もわかる。
「大丈夫ですよ。ここは私が……」
「お恥ずかしい。本当にすみません」
「でも、この後、どうなさるんですか?」
「娘に電話して来て貰いますわ」

「娘さんはどちらに?」
「小田原市です、神奈川県の」
「小田原ですか。連絡がよくても一時間以上は掛かりますよ。今日は熱海の自宅にお帰りになるんでしたね」
「ええ。あら、覚えて頂いてたんですか」
「まあ、袖ふれあうも何とかと言うでしょう。せっかくの東京見物が嫌な思い出にならないように……」

 熱海までの新幹線料金が分からない。財布から千円札を数枚掴みかけたが、それを五千円札に摘み替え、結局一万円札を取りだした。
「これ、失礼とは思いますが、交通費に使ってください」
「いえ、CDを下さった上に、そんなことまで……」
 大いに恐縮する婦人に、私は申し添えた。
「いや、いや。困っている時はお互い様です。では催促なしにお貸しすると言うことで……」
「ではご厚意に甘えさせて頂きます。お名刺頂けませんか。帰ったら直ぐにお送りしますから」
 婦人は、遅ればせながらと断りながら自分の名前と住所を告げた。私も連絡先を書いたメモを渡した。

 私は行き掛かり上、婦人を東京駅まで付き添った。ホームで見送ろうとする私を、「後は大丈夫です」と婦人はやんわりと断った。
「このご恩は決して忘れません」
 婦人とは新幹線改札口の前で別れた。


「待った?」
 待ち合わせの喫茶店。時間に少し遅れた妻が向かいの席に滑り込む。
「いや、今来たところさ」
「何か、いいこと、あったの?」
「分かるか」
「口元が緩んでいるわ。きれいな女性でも見たんでしょう。お見通しよ」
「何だか怖いな」
「そんなこと、ないわよ」

「ねぇ」「なあ」
 同時に口を開いた。
「あなたからどうぞ」
「いや、レディーファーストで」
 じゃあ、私からね。
「さっきねぇ、池上知子にあったんだけど、そう高校の同級生の。それでねぇ、知子のご主人がこの間ちょっと変わった経験をしたって言うのよ……」
 妻はここで少し溜めて、私が前のめりになるのを見届ける。

「それで……」
「何でも、CDショップで上品そうな老婦人に声を掛けられたそうなの。『曲名が分からなくって……』って。何でも亡くなったご主人が好きだった曲だって……」
 えっ?
 途中から妻の声が遠くに聞こえる。

「ねえ、私の話、聞いてた?」
「ああ」
「ねぇ、やはりおかしいよね。知子も私と同意見。でもご主人はいいことをしたって思ってるみたい」
「……」
「で、あなたの話は?」
「いや、やっぱりいいよ」
「変なの」

 つい先程まで味わっていた満足感と高揚感は、果たして一万円に値するだろうか。
 コーヒーがちょっぴり苦く感じられた。


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来戸 廉
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