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【広島旅】平和記念公園で平和を祈る【2022年11月】#2

7:45 ホテルを出発

さて、この日は、宮島観光をメインに考えていたのですが、その前に平和記念公園に向かいます。移動手段は徒歩です。

ホテルから歩いて15分ほど、原爆ドームにやって来ました。

1945年8月6日8時15分に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物です。
ユネスコの世界遺産に登録されており、平和を訴える記念碑として、特に負の世界遺産と呼ばれています。

この建造物は、もともとは、広島県産の製品の販路開拓目的に、「広島県物産陳列館」として1915年に竣工したものです。

設計はチェコ人の建築家、ヤン・レッツェル。
ドームの先端までの高さは約25メートルあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の美しい建物でした。

原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存しました。
ドーム部分が全壊しなかった理由として、
・衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと
・窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける条件が整ったこと
・ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。
などが挙げられています。

戦後、復興が進むなか、全半壊した被爆建造物の修復ならびに解体が進められ、当初はこの産業奨励館廃墟も取り壊すべきだという意見もでていました。
しかし、広島平和記念都市建設法の賛否を問う、「広島平和記念都市建設法に関する住民投票」が行われ、実に92%もの賛成多数で可決されました。
その後、広島平和記念公園構想が本格化していくなか、この原爆ドームが、平和を伝えていくシンボルとなったのです。

平和記念資料館の公式サイトによれば、平和公園及びその周辺には、50を越える原爆関係の記念碑・記念建造物があるそうです。多くは原爆犠牲者の慰霊碑や平和を願う記念碑です。

こちらはまずその一つ。
動員学徒慰霊塔です。


1944年8月の「学徒勤労令」により、中学生以上の学生は、民家などの建物を取り壊し「建物疎開」といわれる防火地帯を作る勤労奉仕が強制されるようになりました。
広島市内においては、建物疎開に携わった生徒約8400人のうち、約6300人が原爆の犠牲となったそうです。


塔の裏側には戦没学徒出身校が刻まれた碑が置かれており、出身校は日本各地に渡っています。

橋を渡って平和記念公園に向かいましょう

まず見えてきたのは、原爆の子の像。

原爆による白血病でわずか12歳で亡くなった佐々木禎子(ささき さだこ)さんを悼み、全国からの募金によって作られました。今では平和のシンボルであり、禎子さんを含めた原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰める像となっています。
禎子さんは、折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて鶴を折りつづけ、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われます。
千羽鶴が平和の象徴となったのは、この禎子さんの千羽鶴がきっかけです。
1999年と2000年の広島市のアンケートでは、佐々木禎子さんと千羽鶴について、日本以上に海外で知られているという結果が出ているのだそうです。そして世界中から送られてくる千羽鶴は年間約10トンにもなるそうです。

こちらは平和の灯(ともしび)です。

台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現しているそうです。
原爆が投下された1945年8月6日生まれの7人の広島の少女たちにより点火されました。
そして点火された1964年からずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。

そして見えてきたのが、原爆死没者慰霊碑。正式名称は「広島平和都市記念碑」と言います。

「原爆犠牲者の霊を雨露から守りたい」という趣旨から、屋根の部分がはにわの家型をしていて、その中央の石室には、国内外を問わず、死亡した原爆被爆者全員の氏名を記帳した名簿が納められています。

石碑の碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。
とても、重い言葉です。私たちはこの約束を守り続けなければなりません。

こちらは広島平和記念資料館です。

原爆の熱線、爆風、放射線、高熱火災のすさまじさを物語る被爆者の遺品や被爆資料を展示し、1945年8月6日、広島に何が起こったのかを伝える非常に重要な施設です。

嵐の中の母子像

第5回原水爆禁止世界大会の成功を機に寄贈されたもの。札幌出身の彫刻家『本郷新』の作品。「わだつみの像」をはじめ、人間愛に満ちた多くのモニュメントを残した。

平和の鐘

鐘の表面には「世界は一つ」を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされている。
鐘楼の周囲の池にはハスが植えられている。被爆当時、ハスの葉で傷をおおい、火傷の痛みをしのいだという被爆者の霊を慰めたもの。

平和記念公園のこの場所は、原爆投下前、江戸時代から昭和初期に至るまで広島市の中心的な繁華街だったそうです。ここに多くの方の生活があったのだと改めて感じ、二度と過ちは起こしてはいけないと深く感じました。

それでは、これから宮島に向かうために「ひろでん」に向かいます。

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