見出し画像

光の中で今日を生きていく

明けましておめでとうございます。大仰なタイトルになってしまいましたが、光の中で生きていかないと逆に色々と不都合なことが多くなってきたし、今後もっと多くなるんだろうなー、と昨年実感しましたのでこんなテーマで書いていきます。


結論から言うと僕はなんとか地に足をつけてちゃんと生きていきたいなーと思ったっていうことと、【光の中で】というのはちゃんと言い表すと『極端に裏表がなく』ということですかね。ちょっと言い表しきれてないのですが、、


まあこれが僕にとってはなかなか難しい話で。。自分で自分のご機嫌を取るといいますか、自分の感情の世話くらい自分でそこそこはできるようになったほうが圧倒的にいいなーということに気づいたものの、どうにもうまくコントロールできない。


いいなーっていうのは対人関係においてそれができる・できないでは雲泥の差がでるなって思ったんですよ。その時々に対する人物が好きな人であろうと嫌いな人であろうと。


本質的に僕らは人生の外因的・偶発的な要素に対してはあまり為すすべがない。人類史上未曽有のウイルスに罹ってしまったり、交通事故にあったり、宇宙人にさらわれたり、といったことに対してはこちらがいくら気を付けていようが防げるようなものでもないケースがほとんどではないだろうか。


要するに、自分でなんとかなる事象とならない事象の区別をつけて前者に対してはなんとかしようと努力して後者に対しては無理にどうにかしようとしないことが肝要ではないだろうか。意外と前者に劣らず後者の考えかたも大きい気がしています。


例えばそうすることが結果的に良いとわかっていたとしても、何もしないでいること・物事を傍観することは意外と難しい。僕はいかに自分で自分を動揺させてしまっていたかが最近よくわかった。ぶれにくく、壊れにくい状態の自分にあらかじめしておくことの重要さを知った。ぶれにくく、壊れにくい状態の自分という状態の作り方があることを知った。


具体的に何をはじめたかというと論理療法と仏教の実践的な側面を生活のなかに取り入れる、ということをやりはじめました。僕はこれで以前よりはかなりましになったと思う。


つまり、以前より自分で自分を動揺させてしまうことや、自分の負の感情にまるまる呑み込まれてしまい前後不覚に陥る機会が少なくなったと言えそうです。簡単に言えば怒りで我を忘れる・悲嘆にくれ憂鬱で無気力になる・倦怠感から自暴自棄になる、といった状態になりづらくなったと思う。


論理療法についてはアルバートエリスの論理療法です。以前にも少し書かせていただきましたが、ものすごく簡単に説明させていただくと、

【自分にとって悪い、極端な思い込みをなくしていけるように常にそれに自分自身で反論していく】という、本当に簡単な説明になってしまっていますが、論理療法のコアはこれだと思います。


そして仏教から取り入れているものについてですが、これは名越康文先生の名著「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」を読み、そこで紹介されている仏教の実践的な修行である「行」を知り、自分の生活のなかに取り入れています。


この「行」とは解釈は様々あると思うんですが、名越先生の解釈を僕が解釈した意味では修行の行にあたる【行い】です。具体的に何をしているかというと、朝起きてすぐにトイレ掃除を15分間かけてやる、ということを毎日続けています。


勿論トイレ掃除=「行」ではありません。名越先生がおっしゃられる「行」は「わからないままただやる体験」・「自分自身が変化する体験」であり『これをやれば~があるよ』といういわゆる【ハウツーもの】とは一線を画するものです。


ちょっと禅のような考え方かなーとも思います。自分で決めた「行」に集中しきることによってその行為に没頭しきること、なにはともあれ兎に角こうすることで、つまり、こういう時間を毎日の生活の中に自分で自発的に作ることで小さくとも自分自身に変化を生み出していく。


要は日常的に部屋の掃除をするように、庭の手入れをするように「心」の掃除や手入れも日常的にやっていって毎日の心の煤や垢、錆を落としていきましょう、ということ。


年末の大掃除をされたかたもおおいのではないでしょうか。本当に当たり前のことですが、少し思い出していただきたいんです。その時の部屋の様子や家屋の様子を。


放置していた場所に積もり積もった塵や埃。手入れできなかった機械や道具の錆や垢。これを時間が経ってからいっぺんに綺麗にしようとしてもどうにもならないことってあったりしませんか?


で、「あーもっとこまめに掃除や手入れをしておけばよかったなー。」って思うことって僕はけっこうあるんですよ。それができてればこんなことにならなかったのになーという思いをすることがおおい。


心もこれといっしょで、散らかりきる前に、汚れきる前に、日々注意して過ごしていければ比較的小さな労力で綺麗な状態を保持することができる。汚れたらその時に拭く、出したらすぐ片づける、という即座に行動する癖をつけておくことが重要になる。


だからこそ「行」の時間を自発的に、ある意味強制的に自分の生活のなかに組み込むことが必要になってくる。部屋の汚れやものの劣化なら最悪は買い替えたりハウスクリーニングでどうにかなるケースもおおいでしょうが、ご存じのとおり自分の「心」というものはなかなかそうはいかない。。


誰かが磨いてくれるわけでもなければ、きれいに整理・整頓・清掃してくれるわけでもない。お金や暴力で他人にそれを強要して実行させたところでそれは「自分で自分のご機嫌を取れる」ことにはならない。


それってすごく「狭いなー」って思ったんですよ。窮屈だし、息苦しい。自分の機嫌をコントロールする要因が常に外的な要因しかないってけっこう嫌になりませんか?


だってそれって端的にいってしまえば僕の心の状態を決めるのは僕じゃなくてほかの「誰か」だったり、「誰かのなにか」だったり、「何か」だったりする。そもそもそれらすべて僕がコントロールできるようなものではないから土台からして他人や他人の言動やモノ自体に自分の心の状態を掌握されてるってことになってしまう。


これが本当に嫌だと僕は思ったんですよ。


なぜってこんなのにずーっと振り回されていたら誰のことも大切にできるはずがないし、自分自身のことも面倒みれるはずがない。自分自身の面倒がみれないってことは人に良い形で関与できることもない。良い人間関係も築くことができない。


悪いことは重なって、さらにお金は自分の機嫌取りのために無駄に消えていくことがおおいし、自分でなにがどうなって悪循環を生んでるのがわからないし自分自身の能力の現在値や心の状態にも気づきにくいから求めてもいない人間関係を求めたり、本当は要りもしない関係に縋ってしまって疲弊しきってしまう。


必ずしもこうだ、というわけではないと思いますが。現実はかなりシビアで、やってきたものや持っている実力以上のものは結果としてでないし、たぶん現象として良いことなんて起きない。


急に広瀬すずちゃんのような子が窓から入ってきて恋に落ちることがないように、棚からぼたもちはでてこない。基本的には。僕個人としてはそう思っている。


だからあんまり神頼みとか好きじゃないんですが、今日は最寄りの神社にいってきます。心構えとして神様に自分の決意を聞いてもらう、ってなぐらいのもんで。そのぐらいがちょうどいいと思うんです。


自分で自分を動揺させないこと。


自分の機嫌は自分でとること。


そういった自分の状態を保持できるように日々過ごすこと。


僕は今年もここらへんが大事になってきそうです。最後はこの曲でお別れを。休日にもってこいのこの曲。ではまた。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?