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小説 『何が、彼女を殺したか』 (11)

note公式テーマ「#家族の物語」応募作品。ある一人の少女が殺された後、残された遺族たちの再生の物語です。全21回にわたり、お届けします。

▶︎目次

再び、復讐の章(前編)


 その日、俺が見たのも、例の間に合わない夢だった。

 来る日も来る日も、真紀は殺され、俺はその断末魔を聞き、絶望の中で目を覚ます。夕日で真っ赤に染まったリビングの隅で、真紀の跡の傍らで。

 人を殺すのは狂った人間なんでしょう──あの懐かしい公園が一望できるレストランで、あいつが、妻だった女がそう言ったとき、「ああ、その通りだ」と、俺ははっきり言ってやればよかった。「こんな夢を毎日見ていれば、どんな人間でも狂うだろうよ」と、そう怒鳴りつけてやればよかった。

 いまとなってはそう思うのに、あのときそうできなかったのはなぜだろうか。それは以前の俺と──妻と一緒にいたときの俺とは違うからだろうか。しかし、それも無理はない。長い長い時間の果てに、俺は妻が隣にいたときの自分がどんな人間だったか、そんなことなど忘れてしまった。「あなたは善い人だったのに」だなんて、妻はそんなことを言っただろうか。下らない。そんなはずなどないというのに。

 軋(きし)むソファから身を起こし、俺はいつものように床板を見下ろした。そこに残る真紀の染み。真紀の跡。お父さん──俺を呼ぶ悲鳴を、現実に聞いたかのように思い出し、俺は心臓に直接、爪を立てる。みるみる開く傷に呻(うめ)きながら、真紀の痛みはこんなもんじゃないと言い聞かせる。

 真紀は苦しんで死んでいった。何も分からないまま、それでも必死に抵抗し、生きようともがいて死んでいった。その苦しみに見合う罪など、一体、地上のどこに存在するだろう。俺の娘を殺した罪を、どうしたら償い切れるというのだろう。真紀はもう二度と戻らないというのに、なぜ、あいつは生きて自由の身になることを許されたのだろう。

 刑務所の外で自由を満喫する村野の姿を想像すると、吐き気に似たものがこみ上げた。村野さんは更生したのよ──再び妻の声が蘇り、そんな声を思い出す頭を叩き割りたいような衝動に駆られる。

 あいつが更生した? 自分と何の関係もない子どもを殺すような人間が? その本性からして狂った、救いようのないクズが? 冗談を言うのはやめてほしい。そういう人間が「更生」することなど、絶対にない。俺は妻のように村野に面会したわけではないが、警備員という仕事柄、同じようなクズを散々見て知っている。

 例えば、昔、ショッピングモールに派遣されていたときのことだ。そこには万引きの常習犯たちがいた。年齢も職業も様々な彼ら、もしくは彼女たちは、俺たちに捕まると「警察だけは勘弁してください」と涙を流した。しかし、それに同情して解放すればどうだ、やつらは性懲りもなく万引きを繰り返して警備員室に戻ってくる。そればかりでなく、以前のことを忘れたかのように、再び謝罪の言葉を口にしながら、涙を流してみせるのだ。

 初め、俺は理解に苦しんだ。泣くほど反省しているなら、なぜ過ちを繰り返すのか。もう二度とやらないなどという約束を口にできるのか。

 けれど、俺はすぐにそんな考えが根本から間違っていたことに気づくことになった。つまり、やつらは元から反省などしていないのだ。それどころか、やつらは万引きを悪いことだとさえ思っていない。警備員に捕まったのは「悪いことをしたから」ではなく、「運が悪かったから」だと思っている。だから、あれは──二度としませんという、涙を流しながらの約束は、謝罪ではなく、運が悪かったときの対処法なのだ。そうすれば許してもらえるということを、やつらは経験から知っているのだ。人の情けにつけ込む方法を、許してもらうための手管の数々を。

 しかし万引きと人殺しでは罪の重さも、その罪を犯す覚悟も違う──俺がそんな経験を話したとして、そう反論する人はいるだろう。軽犯罪と殺人を軽々結びつけてはいけないと、二つはまったく違うものだと。けれど、結論から言えば、やつら犯罪者の考え方は同じだ。いや、正確に言えば、同じらしい。俺はかつては食卓として使われていたテーブルを、そこに積み上げられた本の山に目をやった。

 その本の山は、俺が昔、手当たり次第に本屋で買い込んだ、六法全書から殺人事件の判例集、刑法や民法の解説書の類だったが。真紀の裁判が始まった当初、俺は毎日のようにそれらを読み込んでいたが、それも司法が何の役にも立たないことを理解すると同時にやめ、それらの本はそのまま長い間放っておかれていた。そんな堆(うずたか)い山の一冊が、例のショッピングセンターに派遣されていたとき、つまり、万引き犯の反省のなさに気がつき始めた頃、目に止まったのだ。

 その本は、自身も何人もの人間を殺害した重犯罪者である著者が、刑務所の中から出版したというものだった。刑務所には軽犯罪者用のものと、重犯罪者用のものがあり、この重犯罪者である著者の周りは強盗や殺人犯といった重犯罪者だらけで、著者は自然に彼らの言い分を耳にすることになるのだが、それは驚いたことに、俺が聞いた万引き犯たちの言い分とまるで同じだった。

 「留守宅だと思ったのに、住人がいたから殺さざるを得なかった。俺は運が悪い」「大人しく金を出さなかったから殺さなくちゃならなくなった。金を出さなかったあいつが悪い」。本の中で、強盗殺人の罪を犯した犯罪者たちは、いけしゃあしゃあとそんな台詞を吐いていた。運が悪い、人のせい──強盗ばかりか、殺人を犯しながらも、彼らの根本は同じなのだ。いや、そればかりではない。「あのときちゃんととどめを刺さなかったから、生き延びたやつが通報した。出所したらお礼参りしてやる」、そんな発言をする犯罪者もいると知り、怒りのあまり俺は本を破り捨てそうになった。

 やはりあいつらは反省していない。反省する気さえ、微塵もないクズなのだ。すべてを運が悪かったせい、あまつさえ被害者のせいにし、そこには自分が悪いという発想はまったくない。

 また、別の本には──これは死刑囚房の元・刑務官が書いたものだが──罪を償う立場の死刑囚でさえ、最期に「死にたくない」と暴れるのだと書いてあった。自分のしたことを考えれば、被害者のことを考えれば、死刑囚にそんなことを言う権利はないはずだ。そんな態度をとることなどできないはずだ。だというのに、最後の最後まで我を通そうとする犯罪者の姿に、俺は強い憎しみを覚えた。加えて、そんなクズたちも表向きは申し訳ないことをしたと涙を流すという一文を目にしたときには、頭が狂いそうにさえなった。

 更生というものを俺が信じないのは、そんなわけだった。やつらは口では何とでも言うし、それが手紙なら尚更、あることないこと書き連ねるなど簡単だ。更生したふりなど、その気になればいくらでもできる。

 あの女弁護士のように、加害者を許せと言うやつらには、それがどうして分からないのか。優しいが故に騙され続ける妻はともかく、この国の司法までもがそれでいいのか。口先の謝罪に騙されて、仮釈放を与えるなんてことが、果たして許されるのか。それが真紀の命に対する冒涜だということを、どうして分かってくれないのか。

 ──思い知ったはずだろ、あいつらがそんなこと気にするわけがないことくらい。

 怒りのままに拳を固めたそのとき、胸の奥で声がした。遠い昔の俺の声。妻が「善い人」だったと表現したのは、あの頃の俺のことだろうか。

 一瞬、そんなことに気を取られたせいだろうか。いつもならすぐに沈黙を強いられるその声は続けた。

 ──あいつらは真紀のことなんか、微塵たりとも考えちゃいない。いや、真紀のことだけじゃない。村野のことだって何にも考えちゃいない。やつの罪も、更生も、あいつらにとっちゃ全部他人事、まったくどうでもいいことなんだ。真紀や村野のことさえそうなんだから、俺たちのことなんか、それ以上にどうでもいいに決まってる。……もちろん、だからといって、村野を殺していいとは思わないが。

 声は俺の返答を待つように言葉を切った。

「殺すさ。そのために今日まで生きてきたんだ」

 俺は必要もない答えを口にし──耐えるように歯を食いしばった。ぎり、奥歯が音を立てる。他人事。それは声の言うとおりだった。あいつらにとって真紀の事件は他人事で、一円の価値もないような、本当にどうでもいい出来事だった。そこには悲しみもなければ怒りもなく、慈悲もなければ償いもない──。

「……大丈夫だ、真紀。お父さんがあいつを殺してやるからな」

 いつもの言葉をつぶやき、俺は平静さを取り戻そうとした。手早く支度をし、車に乗り込む。普段ならばトレーニングを終え、仕事へ出かける時間だったが、今日からは違う。仕事は昨日付で辞めてきたし、助手席に置いたカバンには包丁が入っている。村野が真紀を殺すときに使ったのと同じ、刃渡り21センチの文化包丁だ。その切っ先をあいつの胸に突き刺す瞬間を想像しながら、俺は勢い良くエンジンをかけた。

 一昨日、妻は仮出所した村野がどこにいるか、どうしているかさえ知らないと言い張った。けれど、別れ際、彼女のバッグから盗み取ってきた手帳には、その住所こそ記されていなかったものの、はっきりと「村野さん訪問?」と書き込まれていた。やつの名前にさんがついていることにも、その予定が厚かましくも真紀の命日に書き込まれていることにも、それに何より俺に平然と嘘をついた妻に腹が立ったが、知りたいことは知ることができた。

 助手席に置いたその手帳に、俺はちらりと目線をやった。バッグから消えたこれを、妻は落としてしまったと思うのか、それとも俺に盗まれたと思うのか、それは分からない。少なくとも、俺が知っている妻は嘘などつける女ではなかったし、手帳も「盗まれた」という発想ができるような人間ではなかった。けれど、俺が変わったように、きっと彼女も変わってしまったのだと思う。それは責められることではないかもしれないと思う一方で、あの女弁護士がその元凶だと思うと虫唾が走った。

 私は、村野さんの死刑を望みません──あの妻の会見で、その会見で勝ち取った無期懲役のおかげで、あの女は一躍有名になった。もともと顔だけはいいことも幸いしたのだろう、その後テレビで引っ張りだこになり、法律系のバラエティだけではなく、クイズ番組に出ているのを見たこともある。番組の雰囲気に合わせているのだろう、さすがに昔のように死刑廃止を真面目に訴えている場面は見たことがないが、それでもあの女の露出が多くなれば多くなるほど、信者は増える。そうやって多くの人が気づかぬうちに、死刑廃止の流れは大きくなり、いつのまにかその法律は国会に諮(はか)られることだろう。

 そんな目論見を許してはならない。赤信号にブレーキを思い切り踏み込み、俺は歩行者たちを睨みつけた。愛する娘を失った親として、被害者遺族として、俺は死刑廃止なんて許さない。あの女の目論見など、俺が絶対に覆してやる。

 揺るぎない意志に白旗を上げるように、信号が青に変わった。まだのろのろと横断歩道を渡っている老婆をクラクションで追い払うと、俺は手帳に記されていた妻の住所へとハンドルを切った。それはもう一度彼女に会うためではない。盗んだ手帳に書き込まれた予定から、彼女は仕事でいないことは分かっている。

 俺はあいつをこの手で殺す。本当は言うつもりのなかった言葉に、あの日、妻がどこまで危機感を持ってしまったのかは定かではない。俺の目的はあくまであいつの居場所を知ることであり、そこに警戒感を持たせるつもりは毛頭なかった。

 けれど、妻に──元・妻に会った瞬間、自分でも予想し得なかった様々な感情が湧き上がってきて、コントロールがつかなくなった。いや、その前になぜ妻は「会って話しましょう」だなんて提案したのだろう。そして、なぜ俺はその提案を受けてしまったのか。彼女に会うことはリスクでしかない。異変を感じ取られ、村野に警戒されてしまったら元も子もないというのに。

 しかし、過去の行動はもう変えられない。ならば、その過去を踏まえた、これからの行動を考えるべきだと、俺は自分に言い聞かせた。

 手帳が盗まれたことに彼女が気づいたとするならば、それは「俺の仕業」であり、村野と俺を会わせるのは危険だと判断するだろう。その結果、手帳に書かれていた「真紀の命日に会う」という予定を変更してしまうかもしれない。けれど、それも一時のことだろう。遅かれ早かれ、妻とあいつは会うに違いない。いや、あれほど村野さんに入れ込んでいるのだ。会わずにはいられないだろう。

 時間はかかったとしても、村野と妻は絶対に会うというのが俺の考えだった。ならば、俺のすべきことは一つだ。妻のアパートを見張り、村野が訪ねて来るのを、もしくは妻が訪ねていくのを待てばいい。今日は、そのための下見だった。彼女の出入りが分かる場所に部屋を借り、そこで張り込みをするための。そのための資金は多すぎるほどに貯めてきた。何年でも、何十年でも、この命が尽きない限り、村野を追い続けられるほどに。

 村野を殺すという目標の、到達すべき頂(いただき)はほんのすぐそこにあった。もうすぐ、あと少しで指先の届く場所だ。もうすぐ終わる──そんな感覚に気が緩んだのだろう。俺は一度這い上ってきた谷底の闇を振り返った。そこに過去の俺がいることは知っていた。胸の奥から聞こえる声は、その闇から発せられているのだということも。

 お前の望みは村野を殺すことじゃなかったはずだ──すると、吹き上がる風に混じり、弱々しいその声が再び届いた。そうだな──その深い底を目の当たりにすると、過去の封印が小さく揺るいだ。普段なら再び押さえつけるその印を、俺はその微々たる感傷が揺るがせるに任せた。

 確かに、俺はそんなことを望んでなかったかもな──揺らぎからはそんな言葉がこぼれ出た。続けて、俺はあいつの死刑すら望んでなかった──などと、いまの俺とはまったく逆の脆(もろ)い言葉が。

 その弱さを嫌い、俺はクラクションを大きく鳴らした。道を行く人が何事かとこちらを振り向き、前を走る車が慌てたようにアクセルを踏み込む。変わってしまった俺を見上げ、深い深い谷の底から、過去の自分が悲しそうに首を振った。


▶︎次話 再び、復讐の章(後編)


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