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短編小説「他人のりんご」

 保育園のとき、通園バッグを入れる棚に果物のシールが貼ってあった。バナナ、オレンジ、ぶどう、レモン——あたしのところには真っ赤なりんご。

 りんごのシールは嫌だった。隣のさくらんぼが可愛くて、その隣の隣のメロンも羨ましかった。だから、さくらんぼだったミユキちゃんに「交換して」と言ったら、ミユキちゃんはあっさり「いいよ」と言った。「あたし、りんごのほうが可愛いもん」。

 するとどうしたことだろう。その瞬間、あたしは手放したりんごが惜しくなった。そう言われればりんごのほうが可愛いような気がしてならなくなった。でも、ミユキちゃんはさっさとりんごの棚にバッグを入れて、どこかへ遊びに行ってしまった。残されたさくらんぼの棚が、あたしの棚になった。思い通りになったはずなのに、あたしは何だか悔しかった。だから、ミユキちゃんを探して、もう一度頼んだ。「やっぱり、あたし、りんごがいい」。ミユキちゃんはうんと言わなかった。あたしはりんごを失った。さくらんぼを手に入れたのではなく、それはりんごを失ったという思い出になった。

 こんなにも幼い頃に、あたしは人生につまずいていた。そう、すべてはそこからうまくいかなくなったのだ。りんごを失ったあたしは、自分の欲しいものが何なのか、まるで分からなくなってしまった。欲しいと思ったさくらんぼが、一瞬で色褪せてしまうのなら、いま欲しいと思う何かも、同じように色褪せるだろう——そうは思うけれど、他人のものはなぜだかどうしても欲しくなる。隣の芝生はどこまでも青く、あたしの庭はどこまでも褪せているから。

 ミダス王の物語で、王が触れるものはすべて金になる。それと同じように、あたしの触れたものはすべて色褪せてしまうような、そんな呪いにかかったようだった。「昔々、あるところに、与えられたものに満足しない子供がいました。その子供は他人のものばかりを欲しがったので、神様はその子供が得たものすべてを色褪せたガラクタにしてしまう魔法をかけました。手に入れるもの入れるもの、すべてがガラクタになってしまうので、魔法をかけられた子供は、他人のものばかりを羨ましがらなくなり、与えられた自分のものを大切にする子供になりました。めでたしめでたし」。

 あたしはそんな物語の、未だ「めでたしめでたし」にたどり着いていない子供だった。あたしは他人のものなら何でも欲しい。お菓子も、ノートも、ペンも、それに誰かの恋人も。でも手に入れた途端、いらなくなる。それは色褪せるから捨ててしまう。ひどいやつだと罵られる。でも、まだあたしは懲りてない。だって、それは他人の手の中で輝いていて、その輝きを見ていると、あたしだって——と妙に勇気が湧いてきて、気がつけばそれが欲しくてたまらなくなる。だから手に取る。時に、奪う。そして、また罵られる。どうしてそんなにひどいこと言うの? あたしだって泣きたい気分だっていうのに、他人はこの呪いには気づいてくれない。でも見てよ、あたしが取った途端、それはこんなに色褪せてしまってる!

 色褪せたガラクタを集めるくらいなら、そろそろあたしは「自分に与えられたもの」に気づくべきだ、起承転結の「転」を過ぎ、馬鹿みたいな繰り返しは止めて、「結」——物語を終わらせるべきだった。でも、あたしの「転」はどこにあるのか、子供はどうやって「自分に与えられたもの」に気づいたのか、物語は肝心のその部分を語ってはいない。一体、あたしに与えられたものって何? あたしの持っているもので、輝いているものは何? わからない。わからない。どうしてもわからない。

 考え込むと、思いはあのりんごに戻る。あのとき、与えられたりんごに満足していれば、あのりんごの棚を使っていれば、あたしは物語に迷い込むことなく、幸せにいられたのかもしれない。さくらんぼを可愛いと思わなければ、メロンを羨ましがらなければ、ミユキちゃんが「りんごは可愛い」と言わなければ——。

 けれど、もうすべては後の祭りだ。あたしはもうすぐ二十歳になって、りんごもさくらんぼもメロンもどうでもよくて、ミユキちゃんの消息は知らなくて、それでも他人のものばかり欲しがり、手に取り、捨て、あたしの庭にあるのは色褪せたゴミの山だけ。未だ隣の芝生は青い。あたしのもの以外はすべて光輝いている。

 だからやっぱり、性懲りもなく、あたしはそれに手を伸ばす。物語の終わりが見えないままに、あなたのものに指先を触れる。ほら、あなたが持っているそれ。それ、とっても綺麗なのね。あたしも欲しくなっちゃった。だから、それをあたしにくれない? あなたの芝生は青いんだから、少しくらいあたしに分けてくれてもいいんじゃないかしら……?

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