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【エッセイ】四季があるためには

 日本には四季がある、という言葉が、字面のままの意味となり、日本人というものは、いまやまるで別の民族、歴史を紡いだ先人の文化、それを継がねば当然のこと、日本にかつての人々はいないのだ。

 なぜそうなったかはさておいて、四季というのは文化であって、ただ四つの季節の過ぎること、これではないと言わねばならぬ。

 春に梅、ウグイス、桜が咲き散れば、夏に青い山があり、秋に紅くなりゆけば、冬には白く、雪の降る。

 この季節の移り変わりを、愛でる人がいるからこそ、四季は文化となるのであって、その人々のいなければ、梅はただ咲くだけ、桜も散るだけ、それが植物の変化なら、当たり前のことだろう、文化というのは、その変化に対する人の情緒、思いを込めた風景の、移り変わるを楽しみ、悲しみ、心を重ね、それが日本の四季という文化、字面のままの意味しか取れなくなれば、この日本に四季はなし、ただ地球の傾き、太陽の位置、暑かったり寒かったりするというだけなのだ。

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