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正しい教育って何だろう

 チェコに留学して1ヵ月が過ぎました。「留学をすると楽しくて1ヵ月なんてあっという間だよ」という話をよく聞きますが、僕にとっては正直かなり長かったです。慣れない環境で、言葉も通じない人たちと毎日出会う日々は、刺激的でしたが、その分精神的なストレスが大きかったように感じます。

 ですが、なんだかんだ1ヵ月も暮らしていると慣れてくるもので、今では友達も次第にでき始め、順調な留学生活が送れています。精神的な余裕が出始めると、色々なことに頭が回るようになってきます。今まで見えていなかったものが見えてくるようになったり。留学をするとカルチャーショックを受けることがありますが、その中でも特に興味深かったテーマがあります。

 それは「教育」。チェコの学校は日本の学校と大きく異なります。それは単なる教育のシステムや教育水準といったことではなく、「教育に対する考え方」そのものがまるで別物なのです。例を挙げるとするならば、校則。日本は学校によりますが、ほとんどの学校に校則は存在します。その中にも必要だなと感じるものはあります。しかし、その大半は意味不明(少なくとも僕が考える中では)。例えば化粧が禁止だったり、髪型に制限がかけられていたり。僕自身日本にいた時からこうした校則には疑問がありました。しかしどこかで、その校則を変えたところで意味がないと勝手に決めつけ、ただただ先生の言うことに従って生活していました。みんながそうしていましたし、陰で文句を言うことはあっても、誰も面と向かって校則の改善を求めるような人はいませんでした。

ではチェコではどうか。(これはあくまで僕と、一緒にチェコにきている友達の通う学校だけでの話かもしれませんが)服装は自由、髪型も髪の色も自由。スマートフォンも使用してよい。化粧もOK。かなり自由度が高いです。この話を日本にいる友達にすると、皆、「いいなー」「チェコの学校に通いたいわー」という反応でした。つまりこの違いをあくまで「文化」の違いととらえたのです。しかし本当にそうなのでしょうか。チェコの生徒はスマートフォンを使用してよいのにもかかわらず、皆授業をきちんと受けています。そして積極的に発表や質問をし、教師との距離も近いです。日本はどうでしょう。スマートフォンを禁止されているのにもかかわらず、授業中に隠れてコソコソ使う生徒がいます。発表は間違いを恐れ、質問は「そんな簡単なこともわからないの」と馬鹿にされることを恐れて行いません。教師はあくまで指示を与える側の人間であり、ほとんどの生徒は教師と授業時以外での会話をしません。

この差は何なのかと考えたときに、やはり私は「教育に対する考え方」がカギになってくると思います。チェコの教育は、生徒にある程度自由を与え、その中で選択をさせようという考え。日本の教育はルールや規則で生徒を縛り、できるだけスムーズに無駄なく授業を行おうという考え。簡潔にすると生徒を信頼しているか、そうでないかの違いだといえるでしょう。チェコでは生徒の自主性や、学びたいという意欲を信じ、そこを基盤として教育を行います。この教育下においては当然生徒が真剣に授業に取り組むことが必須条件ですが、その分生徒と教師の信頼関係は強固になります。一方日本では、生徒はまだ未熟な存在であり、あくまで正しい方向に大人が導かなければならない、ということを前提条件として教育が行われています。この教育下においては、授業は効率化するかもしれませんが、厳しい規則の抜け道を探そうとする生徒と教師の間に不信感が生まれてしまいます。

 そしてこの差は学校内だけでの話にとどまりません。チェコの教育下では自由度が高い分、自分の道を自分で決めなければいけません。すると自動的に自分の特技を極めたり、積極的に授業に参加する姿勢がみられるようになります。僕の通う学校の生徒たちが日本の生徒たちよりはるかに政治的関心が高かったり、時事に関する理解があるのもその教育が関係しているのではないかと考えています。一方、日本の教育下においては生徒たちは、成績を維持するために授業を真剣に受け、先生の言うことにまじめに従おうとしますが、「受け身」になりすぎるあまり、自主性や独創性が失われ、社会に出たとき、自分を導いてくれる指針がないとどうしていいかわからなくなってしまいます。日本にいるとよく「旧帝大」という言葉を聞きますが、それは世間一般に「成功」とされているルートを目指す、というわかりやすい指針がそこにあるからです。つまり、無数の選択肢の中から一つを選んだわけではなく、いい大学に進学し、いい会社に入ることこそが成功であるというプロトタイプの思考を前提として、選択するということであるため、その選択はかなり限定的なものになってしまいます。

 ここまでの話からわかる通り、日本の教育には大きな欠陥があると僕は考えています。このままでは一人一人が持つ個性や独創性が失われてしまいます。では何を変えていくべきなのか。私は最低でも2つのことを実施するべきだと思います。

1つ目は、偏差値という概念の廃止。偏差値は自分の学力を計るうえで重要な指針として、日本の教育において取り入れられていますが、僕はこの偏差値こそが人の個性を消し、皆を一般化してしまう元凶となっていると考えます。そもそも人の発想力や頭の良さ(単に学力ではない)は、人によって発揮される場所や状況が異なるのにもかかわらず、偏差値は全員に共通したテストを受けさせ、その出来不出来で、その人の頭の出来不出来まで判断する材料となってしまっています。この方法で導き出される学力の高い人は、決して頭のいいひとや発想力がある人とは結び付きません。それでも日本の教育はこの偏差値制度を導入し、テストが行われるたびに教師は「偏差値が標準よりもどれくらい上だったから頑張ってるね」や「偏差値が標準を大きく下回ったから頑張ろうね」などと生徒や保護者に伝えます。その結果、いかにほかの分野で秀でた才能があったとしても、偏差値が標準より上になるように努力をするため、結果大切な才能を台無しにして平凡な人生を送ることになってしまいます。こういった理由から偏差値制度は全く役に立たないどころか、むしろ悪影響を与えているため、即座に廃止すべきだと考えます。もっと言えば、大学や高校の入試時に、全員に同じテストを受験させ、その出来不出来で合否を決めるシステムも間違っています。先ほども述べた通り、人の才能というのは発揮される場所も状況も異なるため、その才能を同じ一つのテストで判断しようというのは理論的に不可能だからです。実際にアメリカにあるMIT(マサチューセッツ工科大学)においては試験というものは実施されておらず、面接とエッセイ、高校での成績(当然日本で行われているテスト重視の成績付けも同じ理由から改善すべきだと考えます)のみが合否の判断基準になっています。

 2つ目は、教師の位置づけの変化。今現在、日本において教師は絶対の存在であり、生徒が教師に反発することはよくないことだとされています。しかし、本当にそうなのでしょうか。たしかに教師が嫌いだからという理由だけで何でもかんでも反抗するのは褒められたことではありませんが、冒頭にあげた校則など、自らの個性や自由のかかわってくるような内容について、またはおかしいと感じた規則やシステムについてはどんどん意見していくべきだと考えます。なぜならば学校の目的は、生徒の個性を育てることであり、その中心にいるのは生徒たちだからです。教師はあくまでサポートをする役であるという大前提があるのにもかかわらず、現在では教師が中心となってしまっています。ここを変化させていかなければ個性が重視された本来の教育は実現しないでしょう。

このように僕は日本の教育に大きな危機を感じています。これくらいのこと、と意見することをやめてしまったそこのあなた、本当にこれくらいのことで済むような話なのでしょうか。皆さんがもう一度考え直すきっかけになれば嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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