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【読書メモ・要約】もう、怒らない(小池龍之介)【#1】

欲望の原因は「まだ手に入っていない」ことに対する苦痛である。欲望があると元気が出る気がするのは、不快による刺激を「ドキドキ→気持ち良い」と錯覚するから。

心が空っぽの状態「空」が維持できれば、最高の充実感とモチベーションを常に維持することができる。無我夢中。

自分にご褒美を約束しても、ストレスが無くなるわけではない。ストレスは食欲に転化しやすい。一口食べるごとに箸を置いて、一挙手一投足に強く意識を統一、集中してみると、意識がさまよいにくくなる。

批判は自分の意見の押し付け。「正しいことが好き、正しくなくては我慢できない」は病気。意見に対して欲望のエネルギーを給油することをできるだけブロックする。

感じたことを共有したい、分かってもらいたいという衝動の裏には、相手を染め上げようとする占領欲求と「孤独な私を理解して欲しい」という寂しさが隠れいてる。意見を撒き散らすのを50%抑えれば、寂しさも50%減る。

怒りの原因は「自分が不当に扱われた」と感じること。怒りは、苦しさ、充実感のなさ、つまらなさ、惨めさなどを一時的に感じなくさせ、喜びを感じさせてしまう。怒りが心身にダメージを与えていることに無自覚になってしまう。

「怒ると力がみなぎり元気になる」というのは体が不快物質のショックによって動かされているだけで、一瞬元気になった気がした後は、ぐったりとした疲労と苦痛が残る。

怒ってストレスを麻痺させ、心が気持ち良いという幻覚を生じる→一瞬元気になったように錯覚する→心が「怒りなさい、気持ちよくなれる」と駆り立てる。このプログラムの構造を理解し、幻覚の連鎖を断ち切ることで、苦を無くして幸福に至る。

日本古来の悲しい、寂しい、虚しいなどの淡い感情も「殺したいくらい腹が立つ」と同じ不快物質を生み出す。

怒ってしまった時は、抑圧でも発散でもなく、怒りの感情を客観視して穏やかに受け入れる。心が怒りに占領されていることを客観視する。「見つめている自らの心」と「見られている怒り」が切り離されて、怒りが鎮静する。怒りの中身を括弧に入れて、「・・・」と思っている。と唱えていると、心がハッと気づく。

「人は他人の悪をしつこく見つけ出しては言いふらす、そして自分の悪は隠してしまう、まるでペテン師がギャンブルで不利なサイコロの目を誤魔化すように」法句経、252番

迷い(無知、愚かさ)は欲、怒りと並ぶ人間の三大根本煩悩の一つで、最大最悪の煩悩。

雑念に意識が飛び散ると、集中や決断に向かうエネルギーが浪費され、すり減る。連鎖反応で、空腹の欲望煩悩やプライドが傷ついてやる気が低下する慢煩悩が増幅する。「迷い」こそが、あらゆる煩悩の元凶になる最大のエネルギー。

迷いの衝動エネルギーを撃退するには、今この瞬間の現実に対して意識を釘付けにするトレーニングが有効。一挙手一投足に意識を向ける、初歩的な歩行禅。通勤途中や散歩中に、意識をさ迷わせず自覚的に歩くことで、充分効果が上がる。意識が逸れる→戻す→逸れる→戻すという地道な作業を繰り返すことで、集中するための基礎体力が身につく。

本当の集中は「好き」を超えた瞬間に訪れる。本当に面白くて集中している時は、「これ好きなんだよね」とは考えない。

集中するのがパワー型の「迷い」調教法、知性型の「迷い」調教法は注意深く、細かいところまでじっくり観察する方法。つまらないのは慣れてしまって、きちんと観察しないから。

「憎む人が憎たらしい相手に対し、恨む人が恨む相手に対して、どのようなことをしようとも、イライラしている自らの心が自分に対してダメージを与えるほどには、それほどひどいダメージを与えない」自説経、31章9番

嫌な言葉もしょせんは「ただの音」。ストレスを受けたからといって、怒りのエネルギーに駆られなければならない必要性は存在しない。できるだけ心を脳に引きこもらせず、身体感覚や目や耳の感覚の中に留めておく。

「戒」は自らをコントロールするためのルール、「律」は集団生活を送るためのルール。

十善戒
欲望を抑える(不貪欲)
怒りを抑える(不瞋恚)
迷いを抑え真理を洞察する(正見)
嘘をつかない(不妄語)
批判をしない(不悪口)
悪い噂話をしない(不両舌)
無駄話をしない(不綺語)
生き物を殺さない(不殺生)
盗まない(不偸盗)
浮気をしない(不邪婬)

早い段階で怒りを察知するには、日頃から自らの心を見張って「今、欲はあるかな、怒りはあるかな、迷いはあるかな」と、発生する瞬間をチェックしている必要がある。

普通にぼんやりと生きていると、潜在意識に溜まっている大量の欲や怒りのエネルギーが勝手に活性化して、おかしな方向へ駆り立てられてしまう。周到な自己チェックにより、諸々のカルマを消滅させることができて初めて、人は自己の主人公となれる。

ネガティブな感情に対して防衛する免疫を「智慧」と呼ぶ。充実感が発生しているのに気付いたら、その味わいを千なら千、そのまま実感するようにする。充実感を過度に求めると余計な煩悩を作ってしまうので注意する。良いエネルギーを潜在意識に蓄えることが良いカルマ(善業)となる。幸福なエネルギーもまた、心にフィードバックされて将来の自分に影響を与えるので、やはり「業」である。

「空」の境地を味わうためのトレーニング。感覚に心をピタリと寄り添わせて、リアルな感覚を意識すると、心が体に一致していくのが感じられうようになる。それに伴って、頭の中の雑念もスーッと静まっていく。禅瞑想では、呼吸や体に向かって意識を集中・統一することで、集中力をさらに高いレベルまで高めるトレーニングをする。

心と体に意識のセンサーを張り巡らせて、見張っていると、心がざわついたり、胸が詰まったり、お腹が気持ち悪くなったりといったことを通して、煩悩の侵入を早期発見することができる。早期発見したら「集中」することで、大抵の欲望や怒りはひとまず沈めることができる。

侵入してきた煩悩の威力があまりに巨大だと、強引に集中しようとしてもうまくいかない。例えば、好きな人に理不尽な振られ方をして、強烈な未練が残っているため、頭の中でクルクルとそのことばかりを考えて、何も手につかない場合。他人に対する過剰な欲望が出ている場合に、強引に反対の感情を作り出してぶつけることで制圧するテクニックがある。怒りのエネルギーに対して、強引に相手を哀れむ、同情の心を作り出してぶつける。慈しみであれば「その人が幸せたらんことを、安穏(あんのん)ならんことを。」哀れみであれば「その人の苦悩のなからんことを」といった短い言葉を繰り返し念じる。同じ意味の言葉を何十回も何百回も念じることで、憎しみや欲望といった相反する感情が、心に入り込む余地がなくなっていく。

四護衛禅
慈、幸せたらんことを、安穏たらんことを
悲、苦悩なからんことを
喜、喜びが現れんことを
捨、執着から自由たらんことを

まず、自分に対して本気で実感できるまで、ひたすら念じる。言葉だけが空回りしそうになったら、再び言葉の内容に意識を集中させる。次に、尊敬する人や好感の持てる人に広げる。十分に念じられるようになったら、苦手な人や生き物を思い浮かべる。反射的に嫌悪感が浮かんでくるのを強引に制圧しながら、穏やかな心で念じ続ける。

もう一つの対処法は、やってきた感情を来客のように扱い、お茶でも出して、無理矢理に追い返そうとしない。手ごわい相手に強引に抵抗することなく相手の力を受け流す。パワー型ではない、智慧を駆使した文化系の感情コントロール法である。

禅瞑想のトレーニング
1.体や呼吸に心をぴったり寄り添わせる
2.感覚刺激に心をぴったり寄り添わせる
3.感情に心をぴったり寄り添わせる
4.法則の観察

1.まず、自らの体を徹底的に見つめる

2.目、耳、鼻、舌、身体感覚、思考の六つの門から情報がインプットされるたびにピリッと発生している感覚刺激を感じ取る。胸の軋み、みぞおちがキュウッと詰まる感じ、こめかみが締め付けられる感じなど。

3.心髄念。ストレスの「感覚刺激」と欲望の「感情」をセットで見張ることで、はるかに観察しやすくなる。心身の不快さを感じとったら、その不快感へと意識を集約する。

4.見守ることに徹しているうちに、最初は強かった不快感が、さざ波がやって来ては去っていくように少しずつ弱まったり、再び思い出してしまうことで少し強まったりと、絶えず変化するのがわかる。センサーの感度を研ぎ澄ませば、無用な欲望や怒りが湧き上がってくるきっかけも圧倒的に減るので、安定性の高い精神状態に至る。

私たちが、その場の空気に適応するのが嫌だなと感じるとき、十中八九は他人が発散している煩悩のオーラである。誰のどんな行為の中にも、何かしらの苦しみの刺激による命令があることを感じ取ることができる。真理を知れば、「可哀想に」という感情が勝る。この気持ちが慈悲の「悲心」と呼ばれる感情である。この心は、心のさざ波を穏やかに沈める、煩悩の特効薬である。

慈悲の気持ちをベースにした平静さ、平常心を保てる人は、従うでも逆らうでもない「空」に近い態度によって、場の空気を乱すようでありながら、その場の風通しをよくするのに欠かせないという、独特の存在感を醸し出す。

終わり


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