見出し画像

綴草子〜千夜一夜小噺集〜 第六話 レモンティー


#創作大賞2023

 ある日のことだった。とある女性が雨宿りをしていた。彼女はびしょ濡れの子犬のように震えていた。
 彼女の雨宿り場所に、一人の青年がやって来た。
 彼女を見たその青年は、足を止めずにはいられなかった。何故なら、あまりにも彼女が震えていたから。

「あの……大丈夫ですか?」

 青年が声をかける。彼女は、びくりと反応をし、彼の方へ視線を向けた。彼女は泣いていた。

「大……丈夫……です……」

 消え入りそうな声で、彼女は返事をした。彼女の肩は相変わらず震えていた。
 彼は、そんな彼女を放っておくことはできなかった。おそらく彼は、その時既に彼女に惹かれていたのかもしれない。ただ、その時の彼には、彼女の涙を止めたいという気持ちだけが先走っていた。

「あの……もし俺で良ければ、そこの喫茶店で話しませんか? ここやと体も冷えますし……」

 彼女は、目を見開いた。そして、少し迷った末に小さく頷いた。
 入った喫茶店は個人経営の小さなカフェだった。店長は物静かで、だけどどこか場違いな、バーの店主のような佇まいだった。

「二名様ですね? お好みの席へどうぞ」

 雨のせいか、客は一人もいなかった。貸し切り状態の店内には、静かに平均律クラーヴィア曲集が流れていた。
 彼は、何となく一番奥のロングケースクロックのそばのソファに彼女を誘導し、腰掛けた。
 ロングケースクロックは少し年季が入っているようで、どこか大きなのっぽの古時計の歌詞に出てくるような温かみがあった。

「あの……何にしますか?」

 関西訛りの特徴的なイントネーションを変えることなく、彼は言葉を発した。

「……ホットレモンティーで……」

 彼女は既に泣き止んでいたが、雨による冷えのせいか、まだ震えていた。

「マスターすんません。ホットコーヒーとホットレモンティーを一つずつお願いできますか? できれば、レモンティーを先に出してもらえると助かります」

 彼が少し大きめの声をかけると、

「かしこまりました」

 と、こちらを振り返ることもなく、店主は磨いていたカップをそっと置いた。
 彼女は震えながらも、状況を飲み込もうと一生懸命周囲を見回していた。

「そないに緊張せんでも良いですよ。ただ、なんで泣いとったんか、良かったら聞いても良いですか?」

 彼は神戸出身のせいか、少し軽めの関西弁で、なるべくゆっくり話しかけた。
 始めはためらっていた彼女も、次第にぽつりぽつりと話し始めた。

「実は……好きな人がいるんです。でも、その人には彼女さんがいて……」
「そうなんか……」
「彼女さんが海外に仕事で行ってしまったんですけど……彼は彼女について行って自分の夢を叶えるのだと、嬉しそうに語ってくれたんです……」
「そうかぁ……」
「彼は私の想いを知らないはずなので……。でも、引っ越す前に……ちゃんと……言おうかとも思ったんです……」
「うん」
「でも……彼の笑顔を見ていると言い出せなくて……」

 彼女は、彼と話せた幸せと彼と離れる悲しさを交互に表情に浮かべた。

「それは、辛いなぁ……」

 彼は、目に見えない遠くを見つめた。

「俺もあったわ、そんなこと。言い出しづらいよな……」
「はい……。彼にはやっぱり幸せになってほしくて、だから、余計に言えなくて……。さっきも彼と別れる前に伝えようと思ったんですけど……」
「そうやったんか……」

 彼は、天井を見つめながら、なんと言えば、彼女の心が軽くなるのか思案した。

「お待たせ致しました。レモンティーのホットでございます」

「あ、ありがとうございます」

 彼女は、ぺこりと頭を下げた。そんな様子を見た青年は、彼女の方こそ幸せになるべきだと思った。

「あの……余計な事やと思いますけど……。やっぱり伝えるだけ伝えた方がええんちゃいます? 結果はともかく、二人がうまくいくとも限りませんし……」

 彼は、ありのままに感じたことを伝えた。

「そう……でしょうか?」
「うん」

 彼女は少し躊躇いながらも、顔を上げた。その表情は、少し明るくなったようにも見えた。

「俺は、あなた自身の幸せのためにも、あなたが一歩踏み出だす事も大事やと思います」

 彼女は、その言葉を聞くや否や、一滴の涙を零した。

「わがままじゃないでしょうか?」
「それは、わがままとは言わんのとちゃうかな?」

 彼女は深呼吸をした。深呼吸をすると、彼女はレモンティーを一口入れて、また深呼吸をした。

「大丈夫ですか?」
「はい、もう大丈夫です。ありがとうございます。おかげさまで、決心がつきました」
「それなら良かった」

 彼女の表情は、穏やかで温かく、それでいて人としての美しさに溢れていた。
 その後二人は、お互いの恋の相手についての長所や、何処に惹かれたのかを話し合った。と言っても、青年の方は過去形の相手だったが。
 いつしか雨は止み、窓からは夕暮れの日射しが差し込んでいた。

「そろそろ行きましょうか」
「そうですね。あ、俺が払いますわ」
「え、でも……」
「えぇんです。俺が無理矢理誘ったようなもんやし」
「でも……」
「ここは、俺の顔立てさせてください」

 そう言って、青年は彼女ににっこりと笑いかけた。
 店を出ると、外は少しひんやりとしていた。

「それでは、私はここで……」
「俺もここで。できれば上手くいくとえぇですね……。俺は応援してますよ」
「ありがとうございます」

 彼女は微笑んだ。その顔に、迷いや悲しみは微塵もなかった。
 二人は別々の道へと歩きだす。お互いの行くべき道へ。

「あーぁ。いきなりの玉砕か……」

 何処かで淡い期待をしていた青年は、一人ポツリと呟く。言葉は、空気に溶けていった。


 ある日女性は、決意を新たに言うタイミングを図っていた。
 目の前に、あの想い人がいる。彼女の心臓は、刀鍛冶の鍛錬のように、大きく早めのペースを保って動いていた。

「あの……ね……」
「どうしたの?」

 想い人は、ニコニコとしながら、レモンティーの入ったティーカップを置いた。

「あの……私ね……あなたのことが好きなの」
「え……?」
「本当は言わないでおこうかと思ったんだけど……やっぱり後悔したくなくて……ごめんね」
「いや、それは良いんだけど……。本当に? 嘘やドッキリじゃない?」
「本当だよ。流石に冗談では言わないよ」

 彼女は苦笑した。

「ずっとずっと好きだったの。でも、彼女ができたって聞いたから、言い出せなくて……」
「そうだったんだ……」
「返事が無理なのはわかってるし、どうこうして欲しいわけでもないの。ただ、これからも仲良くしてほしくて……」
「そっか……」

 彼は天井を見上げて、深呼吸をした。

「あのね、僕からも言わなきゃいけないことがあるんだ。僕、本当は君が好きだったんだ。君とは結ばれないのかもしれないと思ってた時に彼女に告白されて付き合い始めたんだ。だから……今の君の言葉を聞いて、僕はすごくすごく嬉しい……」
「え……でもそんな素振り……」
「そりゃ恥ずかしいし、彼女にも悪いから、お首にも出さなかったけど……。でもね、今でも僕は君が好き。君さえ良ければ、僕が彼女と別れてから付き合ってくれないか? 彼女には、今すぐにでもきっぱり言って別れるよ」
「本当に? 私で良いの?」
「もちろん! なんなら、今すぐにでも君と付き合いたいよ! だから、ちょっとだけ待ってくれる?」

 彼はそう言うと、スマートフォンを取り出して、女性の目の前で現在の彼女に電話をかけた。

「本当は直接言いたいんだけど……でも物理的に無理だから、電話で言うね。僕と別れて欲しい。前々から、僕に好きな人がいることは話していたよね? 僕はやっぱり彼女じゃないとダメなんだ」

彼は淡々と話す。電話の方も、静かな反応だ。

「そう、彼女に告白されたんだ。君には本当に悪いと思ってる。でも、無理なんだ。だからごめん。君さえ良ければ、友達としていて欲しい」

 程なくして、別れ話は穏便に済まされた。彼は居住まいを正すと、女性に告げた。

「改めてなんだけど……僕と付き合ってくれませんか?」

彼女はコクリと頷く。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 二人は、にっこりと微笑み合った。穏やかな時間が過ぎていく。
 二人は示し合わせたように席を立ち、店を後にした。二人の姿は、陽射しの暖かい人混みへと溶けていった。

 その後二人は、穏やかな日々を過ごしていくこととなった。
 彼女は時折思い出す。あの時声を掛けてくれた男性を。背中を押してくれた男性を。
 そして、青年の方も時折思い出す。彼女が幸せだと良いなと思いながら。ほんの少しの胸の痛みと共に。

-次は、第七話 自由への招待-
https://note.com/kuromayu_819/n/n6f792fecb1bf

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?