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綴草子〜千夜一夜小噺集〜 第八話 二人だけの千夜一夜物語


#創作大賞2023

 彼にとって、冬から春は温かい季節だ。あの子がやってくるから。
 空気が心持ち暖かくなりつつあるこの時期、あの子はやって来る。彼女は、早起きした春風に乗ってやって来る。
 少年は、彼女に会いに森に行く。湖のほとりで彼女と会うのだ。

「久しぶりだね」
「ふふ、今年も会いに来たよ」

 彼女はとても小さい。いつも、そっと木陰で、いつもこの時期を過ごす。

「今日から、またしばらくお話できるね」
「そうね、暖かい風が私を運ぶまでは、ここにいられそうよ」

 少年は、今年も彼女との期間限定の会話を楽しむ。彼女の過ごしてきた時間を聞くのが、少年の楽しみだ。

「今回は、どこを辿って来たの?」
「今回はね……」

 少年にとって、彼女の見る世界は眩しい。彼は、彼女を通して知らない世界を見るのだ。彼にとって、彼女は地図であり、本であり、友であった。

「その地域には、千夜一夜物語という素敵な物語があるの」
「なんて素敵なタイトルだろう。僕にもいつか読める日が来るだろうか?」
「えぇ、きっと来るわ」

 彼は、光を見ることができない。したがって、この世の万物をその瞳に映す事が叶わない。
 彼女が、哀しそうな顔をしたことも、寂しそうな顔をしたことも、彼は知らない。しかし、彼女には、一縷の望みがあった。次に旅をするところに、瞳に光を映すことができるようになる目薬があるという噂を耳にしたのだ。
 彼女にとっても、少年は大事な友であった。

「ねぇ。貴方は、光が欲しい?」
「そうだね。叶うのであれば、光を感じてみたいね」
「光は、とっても素敵なものよ。いつかきっと、貴方にも感じさせてあげる。約束よ!」
「ありがとう」

 程なくして、彼女は目覚めた春風に乗って、次の目的地へと旅立って行った。

「また会おう!」
「えぇ、きっとまた会いましょう! 約束よ!」

 二人は、この湖のほとりでの再会を約束し、別れた。

 また、早起きした春風のやって来る季節が来た。少年は、またあのほとりで彼女が来ることを待っていた。
 しかし、彼女は一向にやって来なかった。
来る日も来る日も、少年は彼女を待った。しかし、春風が本格的に目を醒ましても。彼女はおろか、香りすらしなかった。

「どうかしたのだろうか……? 彼女が心配だ……」

 次の年になっても、彼女の来訪はなかった。やって来るのは、春風だけだった。
 その次の年も、その次の年も、彼女は姿を現さなかった。
 少年は約束を果たそうと、毎年ほとりへ向かった。しかし、彼女が姿を見せることはなかった。

***

 ある寒い冬のことだった。あの少年は、またあのほとりにいた。彼はいつの間にか、青年となっていた。そして、今年はいつもよりも冷えていた。

「今年は冷えるな……。彼女は、今年も来ないのだろうか……?」

 彼女に想いを馳せながら、青年はほとりに腰かけていた。毎日毎日腰かけていた。
 そんなある日のことだった。青年は、ほとりで、途切れ途切れの吐息を聞いた。それは、けがをしている、あの彼女だった。彼女は、気を失っていた。

「大丈夫かい!? 今すぐに手当てをするから、しっかりするんだ!」

 慌てて自宅に運び、家族に手当てを託す。

「大丈夫よ。彼女なら大丈夫」
「本当!? 彼女は苦しそうだよ!?」
「大丈夫。お母さんに任せなさい」
「でも……」
「大丈夫よ」

 光を映せない彼には、彼女の様子が見えない。彼女を失うのではないかという不安が、青年の心臓を突き刺す。

 彼女は、何日も目を醒まさなかった。青年は、心臓がしくしくと突き刺される思いで、毎日彼女に寄り添った。

「早く目を醒ましておくれ。また君の話を聞かせておくれよ」

 それでも、彼女は目を醒まさなかった。青年は、どんなに心臓が辛くても、決して彼女のそばを離れなかった。

「目を醒ましておくれ……。どうか、僕のために目を醒ましておくれ……」

 青年は、日に日にやつれていった。

「貴方も、少しは休みなさい」
「でも、彼女が目を醒ますかもしれない……」

 そんなやり取りが、日々続いた。

 ***

 青年の気力が尽きようとしているある日のことだった。彼は、ベッドの縁でうたた寝をしていた。

「ねぇ、貴方が私を助けてくれたの?」
「ん……。あぁ、やっと目覚めたのだね」

 彼は、ふわりと微笑むと、そのまま深い眠りについた。

 ***

 青年が目を醒ますと、彼女はベッドで上体を起こし、青年を慈しむように眺めていた。

「ありがとう。そして、おはよう」
「あぁ、おはよう。夢じゃなかったんだね……。良かった。具合はどうだい?」
「とても気分が良いわ。貴方のおかげよ。本当にありがとう」

 そう言うと、ニコリと笑った。

「ところでね、貴方にお土産があるの」

 彼女は青年の右手を取ると、とても小さな小瓶を彼の手のひらに載せた。

「目薬というものよ。旅の途中で、手に入れたの。この目薬を挿すと、貴方も光を感じることができるそうなの。これをどうしても手に入れたくて、貴方との約束を破ってしまったわ。本当にごめんなさい」

 彼女は、小さな体を震わせながら、目から水を溢れさせた。

「良いんだ。良いんだ。だって、君はこうして、会いに来てくれたじゃないか。僕は、君が会いに来てくれただけで嬉しいんだ。光を感じることができないままでも、僕は君を感じることができる。僕は、君がいれば良いんだ。わざわざ、あんな辛い思いをしてまで手に入れてくれて、本当にありがとう」

 青年は、目に涙を浮かべながら、一生懸命に彼女を抱きしめた。
 彼女は、肩を震わせながら、しっかりと青年の背中に手を回してそのぬくもりを抱きしめた。
 しばらく、そうして互いのぬくもりを感じていた。彼女は、静かに温かい雫を流し続けた。
 青年も、彼女と同じように温かい雫を流し続けた。
 お互いのぬくもりをしっかり感じた後、彼女は、口を開いた。

「ねぇ、目薬を試してみてくれる?」
「あぁ。さっそく試してみるよ」

 青年は、母親を呼んだ。自分では目薬を挿すことができないのだ。

「本当に、これで見えるようになるのかい?」

 母親は半信半疑になりながら、青年に目薬を挿す。
 母親が半信半疑になるのも無理はない。よく巷で見られるその奇跡の薬は、偽物が多いのだ。母親自身、何度も偽物をつかまされた経験があったのだ。
 母親が、恐る恐る両目に目薬を挿す。少年は、ゆっくり目を閉じる。
 すると、青年に変化が訪れた。瞼の裏が、いつもと違うのだ。そう、感じることのなかった色を感じ始めたのだ。

「あぁ……。これが、『眩しい』ということなんだね? これが『色』というものなんだね?」
「あぁ……!」

 母親が泣き崩れる。彼女は、先程よりも大粒の雫を目から溢れさせた。

「そうよ! そうよ! さぁ、瞼を開いてみて!」

 青年は、ゆっくり瞼を開く。

「あぁ! 世界は、こんなにもたくさんの『色』があるんだね!」
「そうよ! こっちは私で、こちらが貴方のお母様よ!」

「私がわかるかい!?」
「あぁ、母さん! しっかり見えるよ! こんなに素敵な姿をしていたんだね! 君も、こんなに素敵な姿をしているんだね! あぁ……、夢みたいだ……」

 彼は、大粒の雫を溢れさせながら、愛しい人たちと、感動を分かち合った。
 その日は、夜遅くまで三人の喜ぶ声が響いていた。

 ***

 青年はあれから、絵を描くようになった。色を感じる習慣があった彼の絵は、とてもあたたかみがあり、たちまち評判になっていった。

「さて、できた」
「ふふ、素敵な絵ね」
「あぁ、最高傑作『僕たちの千夜一夜物語』だ。これは、僕から君への贈り物だ。君には、本当に感謝してもしきれないよ。本当にありがとう」
「私は、大切な人を笑顔にしたかっただけよ」
「僕も、君を笑顔にしたくて、この作品を描いたんだ」
「ふふ、ありがとう」

 彼女は、あれから旅に出ることはなかった。必要なくなったのだ。彼女は、青年となった彼と、自分自身の物語を綴ることにしたのだ。
 彼女は、日記『二人だけの千夜一夜物語』に日々の出来事を綴っていく。その挿絵は、もちろん青年が描く。二人の物語は続いていく。
 これを読む貴方は、いつか出会うかもしれない。二人が紡ぐ『二人だけの千夜一夜物語』を。

-次は、第九話 コーヒーの苦味-
https://note.com/kuromayu_819/n/neabeba873233

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