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線が面になる交わり。

物作りは嫌いじゃない。NHKの「趣味の○○」を見るのも好きだし、難しいと思うことにチャレンジして作り上げることも好きだ。ただ作るだけではなく、時間をかけて吟味してスキルアップしていく工程も好きだ。

昔はあみぐるみ作家だったこともあり、編み物も裁縫も一通りやった。どこかで習ったわけではない。祖母や母の教えと見様見真似で、とりあえず形を作ることができる。ただ神経質なので綺麗に作り上げたいし、一定のクオリティを自分ルールにしているのはある。しかしそれは自己満足で、大事なのは作りたいものを作ることだと思う。

わたしが作家をやめたのは、作りたいものを作れなくなったからだ。その時は作ったものを売って生計を立てていたが、この時代、そういったものはどんどん安価になって、しまいには二束三文となる。農業をやっていても同じように感じる。これでは、かけた時間に対する対価にはならず、費用対効果が悪い。一カ月、朝から晩まで針を動かして、7万円を稼いだ。それがわたしの最高額だが、その時に悟った。

これでは無理だということに。

経済的な意味だけではなく、何より精神的に、作りたいものを作らず、売れるものを作るというサイクルに疲れたからだ。そんなの作家業だけじゃなく、他の職種でもそうだが、自分のやりたいことがやれなくてお金を追い続ける先には、なんにもないと気付いた。

当時はたくさん売れたし、たくさん注文が入っていた。
わたしの作品を好きな人がたくさんいた(はず)。
その人たちのためにわたしは身を削って、腱鞘炎になりながら、たくさん作った。

誰しもが「人の笑顔が見たい」「人の役に立ちたい」と思いながら仕事をするだろうが、わたしもそのひとりだった。あるいは、そう思い込んでいたのかもしれない。

そうして他者に没頭して、自分を失ったのだ。
まあそれは今思えば、若かったからできたことだし、いい経験となった。結局、作っても売れなければ意味がないという教訓もわかった。しかしそれは、その後しばらくわたしが針を置くのに十分な理由になった。

それから何十年(ここはぼかす)経ったある日突然。
晩御飯を食べている最中にふと、編みたくなったのだ。
それはコロナ2年目の冬の季節だった。

好きな糸を買って、自分の好きなものを編んでみようと思ったのだ。
編むことは喋ることと同じようにできる。無意識に手が動くし、途中で途切れることもない。息継ぎのために海面に顔をだすクジラのようになるまで集中できる。

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わたしが離れていた間に、糸の業界は革命が起きていたようで、きれいなグラデーションの糸がたくさん売られるようになった。海外からでも日本に届けてくれるようになった。こうして流行の時の流れを感じさせるが、編み方は古い時代から受け継がれてきたものだ。
編み方には正解も間違いもなく、人それぞれのやり方があって、生け花や茶道のように流派が確立するでなく、共存しているのだ。どんな編み方も、気に入ったなら作ればいい。

こうしたギャップを感じると共に、改めて今のわたしが感じることは、「交わり」だ。
みんなそれぞれ日々「交わって」いると思う。人が、思考が、愛情が、金銭が、様々な場所で、形で交わっている。

単純に考えるならば、男女の交わり、コミュニケーション交流などがわかりやすい。むしろだいたいの交わりはそれで完結してしまうから、「それだけ」で満足している人もいるだろう。

しかし本来の、魔術的に換言すると「根源的な交わり」とは何かということを考えてほしい。魔女のベルテーンのサバトでも「交わり」はテーマに挙がる。
世界にはじめに闇があって光が生まれたとき、闇と光は兄妹であり、夫婦なのだ。日本のことばでは、これを「男性性」(陽)と「女性性」(陰)という言い方をする。むろんジェンダーの意味ではなく、あくまでも性質的な要素で捉えてほしい。

現在の資本主義社会は、男性性的な社会を形成している。競争し、批判し、評価し、相対的に価値が決まる社会だ。
この特徴は「線」である。どこまでも伸びる、長く、細く、線として伸びる光である。

対して女性性というのは、古代的な考え方、いわゆる自然信仰の時代のイメージだろう。産み、育て、作り上げ、または時にそれを壊して再構築する。全体的で、共生的で、平均的である。(しかしこれが社会主義となるかは哲学的になって逸れるので置いておくことにする。)
この特徴は「面」のように包容力があり、立体的で形を形成することである。

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さて、わたしは線の糸を編んで、面を作っている。
これは男性性から女性性への変容をしている。
コクマーからビナーへ。線が形を形成している。
これは自然の流れである。
わたしのなかで両極のバランスを確かめ、作られているのではないか。

一本のただの糸が、編むという神聖な行為によって、形作られているのではないか。
編むというのは、糸と糸の交わりだ。
ひと針入れるごとに、交わる。また、交わる。
交互に折り重なり、織られる。
これはとてつもなく神聖で根源的なエロティシズムではないか。

逆に、性的な交わりしか知らないのでは、勿体ないのではないか。
この世にはこうして身近に、根源的な交わりがあるのに、わたしたちは性欲衝動だけを交わりとかコミュニケーションだと思っていないか。単なる男女だと錯覚していないか。

三つ編み、メイポールのダンス、ハンカチの刺繍など、それら全てベルテーンの交わりとしてこの季節に行われる象徴だ。二極の交わりは、新たなものを生む、誕生となる。むしろ、生産性のない関係ばかりに時間を費やす現代人には耳が痛い話だ。

女性性的なものは、男性性的なものから形を作ったり、育てたりすることができる。(再度言うが、ジェンダー的な意味で考えないでほしい)
古風な生き方だと言われるが、少し前までは服も何もかも家庭で手作りしていたし、最近ではアイドルまでも原料から作っている。すべて原料から作れということではなく、男性性的な社会で「安く手に入る価値」とはまた別の価値が、ここには存在する。それはものを大事にしたり、エコロジーを意識するような、そんな魔女の思想のひとつだ。

さらに、わたしは作られたものは売るつもりはないので、家族のために生活に使用される。最初から形作られたものは、「すぐに着ることができる」という価値がある。しかしわたしは糸から編むので、その過程の価値を、陰陽の均衡を保つことや、女性性的な作業によるリラックス効果を得ることができる。
でもこれを売ってしまうと、買い手には伝わらなくて、やっぱり「すぐに着ることができる」という価値のみになってしまう。やはり自分で作るということが一番良い成果をもたらすのではないか、と思う。

黒猫魔術店は、何年もかけてユーザーに「願いや必要なものの意味を自分で考えて」と発信し、これがやっと定着してきたように思う。しかし今でもすぐほしい、できているものがほしい、簡単な魔術がほしい、という人が多い。コロナで業界の意識と一般常識が低下したせいもあると思う。けれど、そうしてやったところで、それなりの価値しか生まない。簡単以上にはなれないし、自作以上にはなれないのだ。

魔術の勉強をしたい人、魔女になりたい人はたくさんいると思う。
男性性的な社会で生活している人も大勢いる。
しかしその中で、女性性的なものを失ったり、自然に感謝しなくなったりすることは、大いにありえるから、たまにこういうことを意識して体感するといいと思う。
編み物は一例で、ガーデニングでも、山登りでもいいと思う。むろん、それを忘れないようにサバトがある。

また、わたしは決して男性性的なものや社会が悪いと言っているわけではない。現に、日本ではそれなくして生活できない。必要なのは両極のバランスだ。

もの作りはウィッチクラフトとして今でも魔女の習慣として残っている。興味ある方は、これを習慣化するために毎週金曜日21時からYouTube生放送でやっているので参加してほしい。「ウィッチクラフトお茶会」


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