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小説・海のなか(36)


※今回は海のなか(35)と(36)は連続更新になります。近日中に(37)も更新予定。

***

 無理に走り出したせいで、走り方はまだどこかぎこちなかった。さっきまでのあまりにも自分らしくない強引なやりとりに、いまだ浮き足立っている。きっと俺の演技はバレてしまっているだろう。
 羞恥に顔を熱くしながら、俺は全速力で帰路についた。今日の夕凪を思い起こすと熱っているはずの体がスッと冷めていくような恐怖を思い出した。夕凪に声をかけた時、咄嗟に夕凪かどうか自信がないふりをしたが、あれは嘘だった。夕凪であることくらい、最初からわかっていた。昔から夕凪は何かあるとあの場所に座り込んでいることが多かった。彼女がいるのは決まって人通りの少ない小さくて細い石段の方だ。2階の俺の部屋からは幼なじみの少女が神社にいる様子が時折見えていた。今日の今日まで神社にいる時声をかけたことはなかったが。夕凪があそこをセーフゾーンにしているのは尋ねるまでもなく明らかだった。誰だって一人きりでいたい時はあるはずだ。だから、夕凪が神社にいる時はあえて見なかったふりをすることが暗黙の了解になっていた。
 だが、今日の彼女を見た瞬間そんな不文律は掻き消えた。このまま何もしなければ夕凪は何処か深みまで堕ちていってしまいそうだと思った。そう感じた瞬間、考える間も無く夕凪に声をかけていた。どうすればいいのか、どうしたいのかすらわからないのに。
 「いや、とにかく今は帰っておでんだな」
 どうでもいいことを小さく口に出して落ち着きを取り戻そうとしながら、家の中に駆け込む。すると帰宅早々焦れたような声がした。
 「陵、おっそい!どこで道草食ってんの!?どーせあれでしょアイスでも食べてたんでしょ。あたしにはあるんだろうな」
 足音荒く二階から駆け降りてきたのは姉の奏江(かなえ)だった。
 「うっさいなぁ。ほれ、ねーちゃんの分。これで満足だろ」
 そう言ってスーパーの袋から取り出した抹茶アイスを手渡すと、姉は嫌らしくニンマリとした。
 「わかってんじゃない。じゃっ、晩御飯ヨロシク〜。今日のメニューってなんだっけ」
 既に立ったまま好物を食べ始めている姉に若干ゲンナリしながら
 「食前にアイスとか…太るぞ大学生。今日はおでん。すぐ出来るよ」
 「あんただって食べてきたくせに。それにこの後ランニングするから問題ないし」
 「いや、俺は食ってない。あ、そうだ。準備だけするから飯先に食ってて。ちょっと行くとこあるから」
 「は?食べてないって何で…どこ行くの」
 「どこって、そこの神社」
 「なにしによ」
 「言いたくない」
 「ふぅん…」
 なぜか目を爛々とさせながら、奏江は食卓についた。面白そうなものを見る目をしている。悪い予感がする。我が姉は質が悪い。そして妙に勘が鋭いところがあった。そのせいで何度玩具にされてきたか分からないくらいだ。ここははやく夕凪のところへ行った方が賢明だろう。手早く私服へと着替えると、俺は鍋に移したおでんに火をかけた。一緒に大きめのタッパーを二つ用意しておく。夕凪と俺の分を詰めて持っていく腹づもりだった。
 すると、姉が不意に言った。
 「なに、あんた今日家で晩ごはんしないの」
 姉の位置からキッチンの中は一切見えないはずだ。それなのに。鋭すぎる…!と内心泡を食いつつ、温まったおでんをタッパーへとつぎ分ける。
 「あ、うんまあ…」
 ああ。もうきっと全部バレてるんだろうなぁ。と今までの経験から察した。姉はいつもそうだ。一から十を知るというのだろうか。いや、それとも俺が分かりやすすぎるのか?どちらにせよ嫌なのには違いない。こうも筒抜けになるのでは。
 鍋の残りはそのまま鍋敷に乗せて姉の前に配膳した。取り皿ももちろん忘れない。
 「からし、いらないんだろ」
 「そうね。で、誰に会いに行くの」
 頬杖をついたまま覗き込んでくる姉を追い払うように手を振りながら
 「いいから食べてろよ。俺もう行くから」
 そう言い捨てて、逃げるように踵を返すと紙袋にタッパーと箸を二膳突っ込み、上着を二着引っ掴んで外に出た。夕凪はまだ待っているだろうか。結構時間を食ってしまった。それもこれも姉のせいだ。
 見上げると空には既に星が輝いている。近頃随分と冷え込むようになってきた。今年も秋は冬と夏に呑み込まれてしまったようだ。気が逸って、手にした上着を羽織る事もせずに駆け出した。神社の表階段近くには電灯が一本あり、そこだけ白々としていた。石段を登り切り、裏通りに面した側へと神社を抜けてゆくと、どんどん闇が深くなっていった。内心懐中電灯を持ってこなかったことを後悔しながら目的地へと辿り着くと同時にポケットに忍ばせていたスマホを取り出した。ライトがないのでスマホで代用しようという腹づもりだった。
「夕凪、まだいるか?」
「陵?」
 スマホの乏しい灯りの中に彼女の姿が浮かび上がった。闇夜のせいかその肌は不健康なほどに白く見えた。お互いの吐いた息が凍って色づいている。
 「ごめん、遅くなって。晩飯持ってきたよ」
 肩で息をしながら差し出すと、がさっと紙袋は音を立てた。

小説・海のなか(37)へと続く。

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