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小説・海のなか(7)



第4章 ダイアローグ

「それにしても、随分とありふれた娘を選んだものだ」
 妖艶な女は興醒めたようにぽつりとこぼした。低く澄んだ声が虚空に広がっていった。私は女の横顔に目をやりつつその美しさにぞっとした。秀でた額が滑らかな曲線を描いている。そうしてそこから続く鼻梁から顎にかけてのラインには無駄なく削ぎ落とされた鋭利な美が宿っていた。黒くうねりのある長い髪が額縁のように憂いのある表情を彩り、見るものを引き込むような華を添えていた。
 ただ、女には傷があった。陶器のような頬を裂け目が縦に大きく切り裂いている。生々しい傷跡だった。しかし、それすらも女の美貌を損なうものではなかった。傷の生々しさが、その不完全さが奇妙になまめかしく一層妖しい魅力を高めているように見えた。まさに絶世の美しさだ。そして生きているものの持ちうる美しさではなかった。初めて目にした時もそうだった。と私は懐古した。女は恐ろしいほど変わらない。血の気のない素肌が夜の海の中で青白く光っている。女の姿は見れば見るほど自分と重なる。もう数えきれないほどの嫌悪を呑み下して私はようやく口を開いた。
 「普通だからいいのさ。普通だから他人から離れられない。普通だから他人を愛してしまう。それが家族でなくても。そうでなければ人質を取る意味がない」
 かわいた声をたてて女は嘲笑う。
 「自分のことを言っているのか?それは」
 「…そうかもしれない。私もつまらないやつだった。今のあの娘のように」
   「ふふん。今は違うとでも言いたげじゃないか」
女の赤い唇の端がつり上がり、グロテスクな笑みを形作った。
 私をいたぶる時、いつでも心底愉しそうに女は振る舞う。彼女にとってこの世は退屈に満ちているのだろう。すべては自分が消え失せるまでの暇潰しに過ぎないとその目が物語っていた。隠す気がないのだ。むしろこちらのそれを悟って苛立つ様がまた女を興じさせていることに嫌気が差していた。
 「今となってはささいなことさ。もうこの姿で永い間いるのだから」
 私がそう返すと、つまらなそうにこちらを軽く睨みつけてから女は低く告げる。
「…しくじりは許されぬ。あの方がお待ちかねだ」
 「わかっている」
 「ふん…小僧が生意気な口をきくものだ」
 そのまましばらくの間睨み合いながら、それでも女は笑みを崩さない。すべては余興に過ぎず、すべてはどうでもいい。恐ろしいほどの無関心がその底には横たわっている。
 不意のことだった。女の手が気配もなくこちらへと伸びてきた。本能的な恐怖に囚われ身動きが取れなくなる。指の先まで痺れ、震えることすら許されずに支配される。ここにきた時からそうだった。
 気がつくと女の片手が顎に添えられ、無理矢理に上を向かされていた。目の前には長い髪が広がり、視界の端まで黒々と埋め尽くしていた。女の表情は影になって読めない。その姿は覆いかぶさるように大きく見えた。
ーーああ。顔のない怪物に喰われる。
 「お前の意味をゆめゆめ忘れるな」
 「我(わたし)とお前は異なった名だが、存在は同一なのだ。お前がどうあがこうとも」
「……」
 わかっている、と言おうとして声が出なかった。やはりまだ恐怖しているのだ。ーーーこの関係は覆らないと深く刻み込もうとしている。女の思惑はわかっているのに逆らえない。私は手の上で踊らされるしかない。このままだ。消え去るまで、このまま。
 「大丈夫だ。彼女の欲は強い。きっと私や貴女よりずっと」
 抉るような女の視線が降ってくる。女のこの執着は一体どこからくるのだろう。いつも胸にある疑問がまた浮かび上がってくるが、やはり口には出来なかった。知りたいとは思わない。知らない方が、いい。
 「今度こそ、望みは叶えられるだろう」
 念を押すように続けたが、沈黙は続いた。耳鳴りとともに恐れは増幅するような気がした。
 「どうせ、私たちには何もできない。そうだろう。決めるのはあの娘。ただそれを眺めるだけだ。貴女も、私も」
 すると、女は声を上げて笑い出した。堪えきれないとでも言うように。落ち窪んだ瞳が見開かれ狂気の熱を帯びる。
 「それは違うな。眺め記すのは我(わたし)。お前があの娘を導くのだ。…言っただろう。しくじりは許さないと。ただ優しく手を引いてやれ。そうすればあれは堕ちる」
 女は貪るように哄笑した。笑みとともに顔の傷が歪んでもう一つの口のように見えた。
 そうだ。私は所有物に過ぎない。
 何一つできることなど、ない。
 「ああ……了解した」
 ひどく息苦しいこの場所から逃れる方法を、私は一つしか知らなかった。


第四章おわり。
(小説・海のなか8 へつづく。)





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