小説・「アキラの呪い」(10)
前話はこちら。
第三章「家族」
ある晴れた月曜の朝だった。
秋晴れを見上げつつ洗濯物を干していると、母がこんなことを言い出した。
「あ、そうだ。晶だけどね、今週末帰ってくるって連絡あったわ」
「え」
振り向くと、ソファーの向こう側で体を仰け反らせた母と目が合う。間抜けな返答と共に、今しがた皺を伸ばしたばかりのタオルが手をすり抜けて足元を湿らせた。だが、その不快感すらも今はどうでもいい。
「…そっか。てか、事前に連絡あるとか姉さんらしくないな。いつもいきなりなのに」
姉はいつも突然やってきて突然帰っていく。だから、姉が知らない間に帰省して知らない間に帰っていくことも日常的な事だった。折角なら会いたいとこちらは皆思っている。特に両親はそうだろう。それでもそこに干渉されることを姉は嫌がるだろうと察して、敢えて俺も両親も触れずにいたのだ。
「そうなの。逆に怖いっていうか…。もうあの子のそういうところは諦めたんだけどねぇ。どういう風の吹き回しだろ」
滅多に帰省しない無精な姉がなぜ今更帰ってくる気になったのか。全く見当もつかない。わずかに憂いを感じる母の横顔を見ていると、己が身と重なるような気がした。
「姉さん、休み取れたんだな…」
ひとりごちると、母は律儀にそれを拾い上げた。
「夏の有給消化って言ってた。そういうのきちんとしてくれる会社でよかったわ〜。なぁんかほっとしちゃった。晶、そういう話は全然してくれないし」
「父さんに言って休み取れるようにしといたほうがいいんじゃない?会えないとまたうるさいだろ」
「あっ、たしかに。すぐ連絡入れとこう。わたしたまたま休みでよかったわぁ。一週間前じゃ、なかなかとれないから」
そう言うと、母は立ち上がり伸びをした。ついでにテレビが消されて、BGMだったニュースの音声もふつりと途切れる。耳に挟んだ情報によれば、今日は秋めいた爽やかな一日らしかった。
「で、具体的に何日帰ってくんの」
「土曜日から6日間らしいよ」
「ふうん…」
やっぱり姉らしくない。もしかして、実家には一泊だけしてすぐに帰るつもりだろうか。
「ところで、歩?」
「うん?」
「いつまでそこに突っ立ってるつもり?大学遅れるでしょ。さっさと干しちゃいなさい」
その時になってようやっと足元に落ちたタオルの存在を思い出した。
「あっ、やべ」
タオルを慌てて持ち上げると。床にはしっかり水気が沁みて跡になっている。タオルにも木材の色が移っているのを見て、思わず舌打ちする。
「じゃ、行ってくるから。電車、乗り遅れないようにね」
いつのまに支度を済ませたのか、姿を捉えられないほどの早足で母はリビングを突っ切っていく。俺の元には置き去りにされた声だけが届いた。残像を見送ったのも束の間、「いってきます」と声がして、ドアが閉まる音が続いた。
一人きりになった家は一転して静寂に満たされた。俺は洗濯物をほとんど無意識で干しながら、また考えを巡らせた。
頭の中には先日の姉の姿が浮かんでいた。つい数日前に会ったんだから帰省について一言あってもいいはずだった。自殺未遂以降、週に一回の訪問は今のところ維持されていた。姉も拒むことを諦めたのか初回以降は黙って部屋に上げてくれる。拒絶する方が疲れると判断したのだろう。そんなわけで、先日の訪問も全くいつも通りと言ってよかった。俺が押しかけて晩飯を作り、一緒に食べ、速やかに追い出される。ただそれだけ。以前より険悪さが失せたことだけが変化と言えるだろうか。毎度あまりにも変化がなさすぎて不安になってくるくらいだ。まあ、でも当然と言えるかもしれない。ただ一緒に過ごすだけで大きな変化を与えられると言うなら、これまで姉弟で過ごしてきた時間で十分だったはずだ。それでは足りず、だからこそ姉は死を望んだ。なら、現状維持じゃ解決になんかなるわけがない。
どうやら知る必要がある。
水無瀬晶が自殺しようとした理由。
きっと姉自身すらも知らない真実。
それを知って初めて、俺は姉を生かすことができる。なぜか確信を持ってそう思えた。とりあえずは、この帰省という変化を掴もう。小さな糸口でも手繰り寄せれば、いずれ根に辿り着くはずだ。
「アキラの呪い」(11)へとつづく。
次話はこちら。
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