喪失感を抱えても絶望はしない。絶対に。(週末日記final)

金曜日、祖母が逝ってしまった。
よくある文章表現で「眠るように息を引き取った」とあるけれど、本当に文字通り、静かに穏やかに深い眠りについた。

1ヶ月半前に、突然母から「ばあばが大変な病気になった」と連絡を受け、大荷物と犬を抱えて実家に帰ってから今日まで、正直何度も心が折れそうになった。全部投げ出して東京に帰ろうかと思ったこともあった。最後の最後で疲れやストレスの糸が切れ、妹と大喧嘩もした。(ばあば、ごめん…そこは本当に反省しています)

あの夜、「ばあばが呼吸してないかも」と悠長に湯船に浸かっている時に母に言われ、大慌てで全身洗って濡れた髪のまま家を飛び出して、祖母の家に走った。「ごめん!間違いだった!息してた!」というオチを期待していた。だって天然なばあばだから。お茶目で人を笑わせる天才のばあばだから。でも違った。

その日はちょうど主治医の先生の回診の日で、「おそらくあと2〜3日でしょう」と告げられていた。昏睡状態になった祖母は介護の手がグッと減ってしまい、付きっきりだった叔母はその日だけゆっくり過ごすために、別の棟で早めに休んでいた。「よりによって」と叔母は自分を責めていたが、祖母の最後の愛情だったような気がしてならない。もしくは最後の矜恃だったのかもしれない。意思で呼吸を止めたり、心臓を止めたりすることはもちろん科学的にはできない。だけどきっと、祖母自身がひとりで静かに眠ることを選んだのだと思う。

安置される祖母は、今にも「あーよく寝た」と言って起きそうなくらい、穏やかな顔をして眠っていた。私と妹のメイク道具をかき集めてメイクをしたら、イケてるおばあちゃんになって、とっても可愛らしくて、誇らしかった。

80歳でiPadの使い方を覚えたいと言い出し、LINEの使い方も教えると何回かやりとりするうちにすっかりマスターしてしまい、スタンプや絵文字を使って、よく離れて暮らす家族に連絡をしていた。(で、時々盛大に誤字をして、笑いのネタになった)とても柔軟で、素直で、勉強熱心な人だった。

いびつで不安定な愛の集合体としての家族

お通夜や葬儀の日、来てくださった方々には口を揃えて「ご家族全員で介護されて、本当にすばらしいですね」とか「ご家族に支えられていたおばあさまは幸せでしたよ」とか言っていただいたけれど、それは違う。祖母が私たちを支えてくれていたから、みんなで踏ん張れたのだ。

祖母は、紛れもなく愛の人だった。自分のことよりも人のことをいつも考え、人だけでなく草花や動物を慈しみ、質素で堅実でつつましやかに暮らすことを好んでいた。祖母と交わしたLINEを見返すと、そこにはいつも、私や夫を心配する言葉、ごはんはちゃんと食べているか、いつでも帰ってきておいでというような、優しい言葉で溢れていた。身体こそ小さかったが、祖母の愛情はとても深く大きく、私たち家族を包み込んでくれていた。

愛の形は人それぞれ違う。表現の仕方も100人いれば100通りある。それぞれ持ち寄った愛の形がパズルのピースのようにぴったりと合わされば良いけれど、そんなこと現実ではそうそうない。角と角がぶつかったり、凹みができたり、どこかいびつで不安定な愛に、悩み、苦しみ、苛立ち、怒り、振り回される。私を含め人間って本当に不完全なものだと、この1ヶ月半でつくづく感じた。

愛は優しくない。厳しく、酷く、時に残酷なまでの苦しさを与えてくる。ほんわかしたひだまりのような、そんな生半可なイメージとはかけ離れていることを私はこの1ヶ月で学んだ。だからこそ、それを乗り越えた時に得られる愛は、一層強固なものになるのだと思う。

だからこそ、祖母は本当にすごい。祖母の深い愛が皆の胸にしっかりと刻まれていたからこそ、いびつで不安定な愛の集合体としてなんとかやってこられたのだから。

長女として医師として、祖母の意思を最大限に尊重する治療をしようと決めた母。

祖母とずっと一緒に暮らしてきて、ずっと祖母に寄り添ってくれていながら、祖母を見送るまでは絶対に泣かないと決めていた芯の強い次女の叔母。

祖母の病気の知らせを聞いて身ひとつで新幹線に飛び乗り、そこから1ヶ月半ずっと付きっきりで祖母を介護した三女の叔母。

私が力がなくて使いものにならないので、祖母を車椅子に乗せたり、寝たきりになってからは体勢を変える手伝いをしたり、叔母たちの仲違いの橋渡し役になったり、精神的にも肉体的にも疲労する仕事を全部請け負ってくれた妹。

仕事が激務なのに、帰れるタイミングがあれば車を飛ばして祖母に会いに来てくれた弟。

(ちなみに私はというと、実家の食事全般など、母の負担軽減に努めていた)

それぞれ、愛の形は違うけれど思う気持ちはきっと同じだったと思う。

「とにかく、祖母を安らかに、穏やかに送り出したい。」

そんな同じ思いを持てたことは、すべて祖母がかねてからその大きな愛で私たちの穏やかな日常を祈ってくれていたからこそだ。祖母の愛があったから、私たちはそれに何とか報いようと必死になれた。

愛の苗木を祖母と一緒に育てていく

クリスチャンだった祖母が大事にしていた聖書の表紙にメモ書きがあった。

金で買えないもの3つ
1. 家族の絆
2.心配のない生活
3.満ち足りた気持ち

祖母が満足できたかどうか確かめる術はないが、多分、平均点くらいは達成できたんじゃないかな。ばあば、時々辛口だから「全然足りない!」って言われるかな(笑)

本当に眠っているようで穏やかな顔をしていたから、きっと満ち足りた気持ちだったんじゃないかと推測するし、家族がこんなに集まることもないね、と急遽開催した叔母の誕生日パーティーでは辛い身体を押して起き上がり、本当に嬉しそうにご飯やケーキを食べていた。きっと家族の絆を感じてくれていたと信じたい。
心配のない生活も、祖母の心配事は私たちが全て引き受けると母たちが約束したし、私たち孫もそれに存分に協力するつもりだ。

生前、祖母が大切にしていたこの3つを、今度は私たちが大切にしていこうと思う。祖母のような全てを包み込む大きな愛に到達するまでに、まだまだ時間はかかるけれど、小さな苗木がいつか大きな木陰を作る大樹に成長するように、自分の中の愛の苗木を祖母と一緒に育てていきたい。

育てるといえば、奇しくも祖母が逝った日は、自分のサービスのローンチ日の夜だった。仕事の話はしていなかったけれど、見守ってくれているのかなと思えてならない。祖母の愛に見守られている以上、きっと愛に満ちた手紙のコミュニティが生まれるはずだ、そういうコミュニティに育てていきたい、という気持ちを一層強くした。

死ぬことを選びたかった私が生きることを選んだ日

正直、このnoteを書いている今も泣いている。
祖母にもっとできることがあったんじゃないか、と後悔していることもたくさんある。
もっともっと祖母と日頃からコミュニケーションをとっておけば良かったと悔やむ。
祖母からいつものようにポロンとLINEが来るんじゃないかと思ってしまう自分もいる。
この喪失感と自責の念はきっとそうそうすぐには消えないと思う。
それでも生きていかなければならない。

今回、祖母のお通夜や葬儀の中で、誰もいない会場で大声を上げて母が泣くのを2回ほど見た。
私たち子どもには絶対に見せまいと、毅然としていた母も本当はずっと泣きたかったのだ。
そんな母の背中を見ながら思った。「ああ、絶対に母にこんな思いをさせてはいけない」と。

私はずっといつ死んでも良い。この世に後悔はないと思っていた。
なんなら、生まれてくることは選べないのだから、死ぬ権利くらい自分に委ねさせて欲しい、くらいまで思っていたこともある。

でももう、母を泣かせるわけにはいかない。あの背中を見て、私は誓った。
祖母が生前LINEでも「お母さんを頼むね」と言っていたが、きっと最後に私に母の背中を通して、祖母が語りかけてくれたのだと思う。

「どんなに辛いことがあっても生きて、生きて、お母さんをよろしくね」と。

遺された者がすべきことは、きちんと食べて、きちんと寝ることだ。どんなに辛くても、食べなければいけない。ドラマ『アンナチュラル』でも主人公のミコトがこう言っている。

ーー絶望してる暇あるなら、うまい物食べて寝るかな。

私たちには明日がある。明後日もある。日常が待っている。
絶望している暇はない。生きていかなければ。

さあ、明日から何を食べようかな。

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