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名もなき病(やまい) №5

娘が一歳の頃、実家から「孫を連れて遊びに行こう」と誘われた。

慣れない育児で疲れていた。
それに育児休暇が明けて職場にも復帰していたので、休日は休みたい気持ちもあった。
しかし家で義父母の相手をしているよりいいかもしれないとも思った。
どっちにしろ休めはしないのだ。


父母は初孫に夢中で、帰れば私から取り上げんばかりの歓迎ようだった。
私を休ませようという思いもあったのだろう。
しかし外出となると、すっかり任せきりにも出来ない。

どこに行くのか尋ねると、実家から車で一時間くらいの場所で博覧会があるという。
赤ん坊向けの展示ではないけれど、めったに見られないものだから孫を連れて一緒に見たいと。

内容を聞いてもあまり気乗りがしない。
しかし孫と出かけようと張り切っている父母の気持もある。
それじゃあ行こうか、と承諾した。
金曜の夜から帰れば、間に外出したとしても実家で休む時間が少しはあるだろう。


夫に話すと「行っておいで。」と言ってくれた。
自分も一緒に行くという気は無さそうだった。
まあ、そうだろう。
私も無理に誘う気はない。
別に実家と夫の仲が悪い訳でもないし、このままでもいいだろう。

後は義父母に話すだけだ。
毎週恒例となっている一週間分の食料品の買い物は、私以外で行ってもらうしかない。
幼い娘と足の悪い高齢の義母と一緒の買い出しは、夫がついてきたとしても楽ではなかった。

行かなくてもいい。
そう思うと少し気持ちが軽くなった。
疲れるんだ、行くと。
体もだけど、気持ちが疲れるんだ。
改めてそう思った。


「次の週末に実家に帰ります。」
そういうと義父母は、はいはいと頷いた。
「すいませんが買い出しは、お父さんとおばあちゃんでお願いします。」
私が戻るのを待ったりせずに、夫と義母で言って欲しいと念を押したつもりだった。

だが自分で言っておいて、ふと罪悪感がよぎった。
「急ですいません。実家で博覧会を見に行くから一緒に行こうと誘われて…。」
言い訳だった。
誰も責めてなどいないのに、仕方なく行くんだと強調したくなった。
買い出しに行かなくて済むと喜んでいる自分を自分で責め、言い逃れがしたくなったのだ。

「博覧会?」
義母が急にこちらを向いて、目を輝かせた。
「新聞に載っていたね。私も行きたいと思ってたんだよ。」

「ああ、そうですか…。」
義母は新聞をよく読む。
いろいろな情報に詳しく、特にイベント系はよくチェックしていた。

興味があるんだ。
帰ってきたら、どうだった?って詳しく聞かれるのかな。
それも面倒くさいな。
でも話くらい仕方ない。
写真も撮ってきて見せてあげた方がいいかな。

今回は実家に帰っても、娘を連れて遠くに出かけなければいけない。
実家から帰ってきても、義母にいろいろ話をして聞かせてあげなければならない。
小さなことだけれど、今から予想出来るこれらの煩わしさにため息が出た。

出来る事なら土曜日も日曜日も、一日中寝ていたかった。
買い出しにも行かないで遠出もしない。
夫か実家に娘を頼んで、ずっと寝ていたかった。
月曜日からはまた仕事もある。


金曜日の夜、前もってまとめておいた荷物を玄関に置き、娘を抱っこしたまま、居間の義父母に挨拶をした。
「それじゃ行ってきます。日曜日は何時に帰るか分からないので、ご飯は待たないでください。」
耳の遠い義父は、私の言葉は聞こえていないようだったが、実家に帰ることは分かっていたので「うん」と頷いた。

義母はこちらに背を向け、顔を下げたまま言った。
「行ってらっしゃい。皆さんによろしくね。」
機嫌が悪そうに見えた。
何かあったかな、と思ったが留まって様子を見る時間もなかった。

例え何かあったとしても、私が帰ってくるのは明後日の日曜日。
些細なことであれば、きっとそれまでには機嫌も直るだろう。
義父と口喧嘩でもしたのかもしれない。

娘をチャイルドシートに座らせて、ゆっくり車を発進させる。
少し走ったところで、自然にほっと息がもれた。
今からしばらくの間は、義母の機嫌を伺ったり、義父に大声で何度も話しかけなくていいと思うと心が安らいだ。


土曜は朝から天気が荒れていた。
風が強く、雪交じりの雨が降っていた。

「行かなくてもいいんじゃない?」
何度も言ったが、母の気持ちは堅かった。
自分の見たい博覧会を、大好きな初孫を抱いて行く。
悪天候ごときでは中止には出来ないらしい。

しかし、私は1歳の娘が気になっていた。
小さな子供はあっという間に体調を崩す。
朝は元気でも、夕方熱を出すことも度々。
もし日曜日に発熱したら病院も休みだ。
休日当番医に行くか、月曜日を待ってかかりつけの小児科に行くか。
どちらにしても仕事に影響が出そうだ。


会場は人でごった返していた。
広い館内の展示を見るために、順路に従って長い行列が出来ていた。
室内は暑かったが、本館と別館をつなぐ渡り廊下は、外気が大量に吹き込んできて寒い。
運が悪いことに、その寒い廊下の真ん中で行列の進行が止まってしまった。
進むことも戻ることも出来ないまま、吹き込む風を浴び続けた。

このままでは風邪をひく。
そう思って持参したバスタオルで娘を包んだ。
しかし行列は動く気配がない。
次第にイライラし始め「だから来たくなかったのに」という思いでいっぱいになった。


行列が動き始めてしばらくしてから、私は半ば無理やり「もう帰ろう」と言ってその列を抜けた。
母は残念そうにしていたが、今晩この子が熱を出したら病院に行くのも看病するのも私だ。
これが義父母であったら最後まで我慢したかもしれなかったが、実父母であるという気安さで自分の我を通した。

帰りの車中で、母は最後まで見れなかったことに不満を言い続けた。
ほとんどは見終わっていたのだ。
しかし、「母は全部見たかったのに」と繰り返した。
勘弁してほしい。
こちらはギリギリまで譲歩したつもりだ。
婚家では婚家への、実家では実家への気遣いで私はへとへとだった。


早めに切り上げたお陰か、そもそも心配するほどの寒さでなかったのか分からないが、娘は体調を崩すこともなく元気だった。
しかし私は疲労や冷えで、実家に戻ってから気分が悪くなり横になって過ごした。
明日はもう義父母の元へ戻らなければならないと思うと、胸のあたりがぎゅっと苦しくなった。

翌日ゆっくり起き出して、母の用意してくれた朝食を食べた。
次に朝寝坊が出来るのはいつだろう。
多分また実家に帰った時だろうな。
何週間後か、何か月後か…。

「またおいでね。またすぐおいでね。」
そう言われながら実家の玄関を出た。
「また来るからね。」
軽く手をあげて車を出した。
後部座席では娘が、じっじとばっばに小さな手を振っていた。


家に帰った。
今の私の「家」に帰った。
我が家なのに、どうしてか帰ったという喜びが湧かない。
しかし帰ってきてしまったからは、中に入らなければならない。

「ただいま帰りました。」
そう言って居間に入り、娘を床に降ろして体を上げた。
部屋の真ん中には義母が座っていた。
こちらに背中を向けて顔を下げている。
まるで金曜日の夜、私が挨拶をした時と同じ様子だった。

ぞっとした。
あぁ、あの時のまま。
まだ不機嫌なままなんだ。

急に義母が口を開いた。
「私はこれから電車に乗って、博覧会を見に行くからっ!」
「一人でも行くからっ!」
強い語尾だった。
機嫌が悪いのではなく、怒っているのだ。

「博覧会に行きたかったんですか?」
「そうだよ、ずっと行きたいと思っていたんだよ。誰も連れて行ってくれないから、自分で行くから!」

義母は足が悪い。
身体障害者手帳をもらっているのもそれが理由だ。
しかし外出が大好きで、私が出かける時は自分も行くと言ってきかない。
スーパーやデパートへはもちろん、銀行へ行ってすぐ帰ると言ってもついてきた。
だが、今回は実家への里帰りだ。
いくら博覧会に行きたかったとは言え、嫁が父母と外出するのについて来たかったとは思わなかった。


この人は「お義母さんも一緒に行きませんか?」と誘われるのを待っていたのだ。
そしてそれが叶わぬまま、嫁は外出を終えて帰ってきてしまった。
そのことへの怒り。
私への怒り。

その幼稚さに、一瞬虫唾が走る思いがした。
しかしこの気持ちは、嫁としてあるまじき感情だ。
目上の人へ向けていい気持ちではない、そう思って抑え込もうとしたが、無かったことにするのは難しかった。

奥歯の奥に、苦みの様なやえぐみの様な何かが残って消えない。
徐々に薄まってはいくけれど、嫌な味を噛みしめてしまったことを忘れられない。
そんな思いで、言葉に詰まったまま義母を見ていた。


「一人で電車に乗ったことないでしょう。それにこれから行ったって閉まっているよ。」
夫がなだめるように義母に話している。
「じゃあ明日行く。」
「明日は月曜日だから、誰も送ってあげる人がいないでしょう。どうやって行くの。」
「タクシーで駅まで行く。」
「向こうで駅を降りてからも遠いんだから…。」
「だって博覧会は今週で終わりだから、行かなきゃ終わっちゃうんだよ。」

駄々っ子の様な義母をどうしたらいいか分からぬまま、夫にその場を任せた。


博覧会は確かに今週で終わりだ。
最終日は数日後の平日だったはず。
それまでに私も夫も、義母を博覧会に連れていくことは敵わぬだろう。

今から最終日まで、義母がいつまたこの話をぶり返して文句を言い始めるかと思うと、また胸のあたりがきゅっと痛むような気がした。


もう二度と義母に話すのは止めよう。
実家でどこに行ったとか、もしかしたら何を食べたかも言わない方がいいかもしれない。
特に、楽しかった話はしない方がいい。
楽しかった?
いや、今回だとて私は楽しかった訳ではない。

ああ、ずいぶんと理不尽なものだな。
「嫁」とは、つまりこういう物なんだ。

ぼうっとしている私の横で、娘はにこにこと笑いながらお気に入りのおもちゃをいじり始めた。
ねぇ、あなたは決して「嫁」にさせないからね。
絶対に、絶対にあなたを誰かの「嫁」にはさせないからね…。


「女三界に家無し」

昔のことわざだ。
幼い時は親に、嫁げば夫に、老いては子に従う。
だからこの広い世界で、女はどこにも安住の場がないという。

私も三界に家がない。
婚家でも、時には実家でも自分自身の素の状態でいられない。
そして一人になれる自分の時間は、家事と育児と義母に吸い上げられて消滅している。

まるで「私」という人間が消えてなくなったような気がする。


気が付くと、義母は押し黙り、夫は少し怒り気味に話を切り上げたところだった。
部屋を出る夫と一緒に、自分も娘を抱いて二階へ上がった。

荷ほどきをすれば、すぐ夕飯の支度の時間だ。
あの状態の義母と二人で台所に立つのは気が滅入る。
しかし逃げ道もない。
黙って何かをもくもくと切るしかない。
人参がいいか、玉ねぎがいいか。

今晩はカレーになるかもしれない。
後味の苦い、濃いカレーに…。










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