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既存の価値観とプライドをぶち壊せるかが、男としての生存戦略だ

さあ、手をつなごう
いっしょに走ろう
僕らは仲間だ

と、我々の世代は子供の頃に(当時)教育テレビを観て互いの友情を確かめ合ったものである。
そんなさわやかな世代……

だったのは幻想

人によっては50が迫り、さわやかどころか加齢臭さえ漂いそうな気配を感じさせている。そんな世代の中にも、中には大犯罪に手を染めるもの。
(もちろん、それを世代が関係しているとこじつけるのは極端な話だが)

そんな、さつばつ3組。



コミュニティ・居場所形成問題

最近筆者は、生涯未婚が見込まれる人は、結婚からの家族に代わるゆるい繋がり、コミュニティを形成するべきではないかと提案している。
今までの(主に昭和時代に強まった)価値観を引きずっていては息苦しくなる人が大勢発生してしまう。ならば、これを機に色々と見直して変化を加えてみるべきだと。

上記のAbemaでも、コミュニティの話は出てきている。
『何者でもない人』が場の中に入り会話を交わせる、そんなかつての地域コミュニティ、会社コミュニティという、身近なところで形成されるコミュニティが必要ではないかと。

確かに、これは何者でもない人物が『所属』できる場ではある。ハッキリとした何者かになれる保証は当然ないが、誰かに意識される場ではあるだろう。孤立感を防ぐ場としては機能するかもしれない。

しかし、番組内でも指摘されていたが、そういう場でどうでもいい中身のない会話に付き合わされて会話を合わせられるかどうか問題があるのではないかと。恐らく、猥談なども出て下卑た空気になる可能性もある。
しかし、孤立しがちな人間がそういう空気に合わせられるのだろうか?
また、知性が多少なりともある人なら、それなりに意味のある会話はしたくなるだろう。そんな話題で盛り上がれる場になるだろうか? 知性がある者同士でも、価値観や興味の違いから時に会話が噛み合わなかったりする。
なんでもいいからコミュニティに属せればいい、というわけでもなかろう。場合によっては、逆に孤立感を生むに違いない。

コミュニティを形成するなら、やはりある程度の知性と趣味に対する価値観が一致した方がいいはずだ。
「あ〜、それ、分かるわ〜」
と、飲みながら深く頷ける場面が何度も訪れるようなコミュニティの方が居心地は快適なはずだ。
そういう場に出会えるかどうかの方が重要ではないだろうか。

 

男のプライド問題

番組の中で気になるポイントがあった。
途中、山口氏の発言で、
「男性のプライドの強さ」
「(人生が)こんなはずじゃなかった」と嘆く男たち
が指摘されていた。
これは、何かしらに殺意を抱くほどの強烈な感情を持つ者が、なぜにそんな感情に至ったかを聞いた時に出てくる言葉らしい。

やはり、ある程度の年齢の男性となると、どこかで昔ながらのマッチョイズム、「男ならこうするべきだ!」という価値観が強い。子供の頃に「おとこのこなんでしよ!」「男ならこうしないと!」と親を中心とした周囲の大人から叱られた人も多いのではなかろうか?
そういう中で、自然と「男なら」を意識するようになった人も多いはずだ。
ギャバンだって、「男なんだろ、グズグズするなよ」と煽ってきていた。男だからこそ、力強くガンガンに攻めて生きろというのだ。我々氷河期世代も、まだまだ男として煽られていた世代なのである。
だからこそ、男としてのプライドが立ちはだかってしまっている。しかし、氷河期世代であり多くの人が望んでいた人生と大きく外れたところにいる。
まさに、

「こんなはずじゃなかった……

である。
気がつけば、名もない花を踏みにじってるのである。

 

今こそ、その価値観を見直すとき

 

そんな中、上記のYouTubeチャンネルを観ていた。
ここで、成田悠輔氏が非常に示唆的な発言をしている。


『価値観とか評価指標を無視する力』
『根拠のない価値観を重視している傾向』

成田氏に子育てをするなら何を意識するかと問われた際に、彼は価値観とか評価指標を無視する力を上げていた。
これからの子供たちに対する教育方針として語られたものだが、いやいや、これこそが、今の『男として』を意識しすぎているおじさん連中に投げかけられた必要な価値観ではなかろうか。
今の男性連中は、まさに根拠のない価値観に縛り付けられている傾向にある。伝統や家制度がどうこう言えど、結局それは明治以降になってから国が主体となって作り上げられた価値観ばかりじゃないか。
そういう伝統がありそうでない価値観に我々おじさんたちはあまりにも縛り付けられているのではなかろうか。
それがゆえに、不要なプライドに惑わされて「こんなはずじゃ……」と暗黒の穴に落ちてしまっているのではないか。

人間を野生の生物として考えるとなると、当然オスとなれば力強くありたい。でなければ、力なきものは獲物にされるだけであり、野生界から淘汰される。生殖面においても、外見やその力強さでメスを射止める種類は多い。
しかし、人間は野生の動物とはまた違った存在だ。確かに、DNAレベルでの本能で動く面があり、オスとしての力強さを無意識にでも求めるところはある。とはいえ、人間はもはや野生生物とはかけ離れた存在だ。その規模の大きい社会において理性ある行動が働いている面もある。
ならば、オスとしてを超え、似非伝統的価値観をも覆し、『男として』というプライドを無視する姿勢をも見せられるようにすべきなのではなかろうか。

筆者が提案している、家族に代わるゆるいコミュニティだってそうだ。既存の価値観や、それこそ男としてを意識していたら、なかなか受け入れられない空間だろう。
なにせ、未婚おじさん同士で一つ屋根の下まではいかないものの、場合によっては疑似的に家族の役割もこなそうと言っているのだから。男としてのプライドを掲げてしまう人にとってはむしろ嫌悪してしまうに違いない。
しかし、もはやそんなことは言っていられない。
なぜならば、それくらいに社会が急速に変化しているのだから。
生涯未婚者は増え、独身のまま老後に突入する人は増えていくはず。特に、我々氷河期世代は老後の資金に心もとない人は大勢いるはずだ。そこで、男のプライドを掲げて一人で生きようとするのは、相当の実力と覚悟が必要なのではないか。孤高の戦士として生きられる強い自信があるならばいいが、そんな自信も覚悟もない、中身のないプライドだけしかないなら、価値観を変えた方が安心だろう。

我々氷河期世代だけではない。成田氏の発言は、子育てへの問いかけからきたものだ。つまり、これからの世代への価値観に対する問題定義である。
現状ならば、古い価値観を子供に教え込もうとする大人はまだまだ多いだろう。
そうではなく、いかに柔軟な思考をできる大人になれる場が作られるか。
現状の教育制度に頼っては難しい。
成田氏の指摘通り、民間でそれこそ柔軟に対応すべき問題ではなかろうか。
つまりは、民間で世代を超えた、柔軟な価値観を伝えられる(押し付けるわけでなく)コミュニティが必要になってくるのではなかろうか。
そういうコミュニティが地域ごとにある状況にしなくてはならないだろう。

『男として』の思考とプライドに囚われない人間をいかに育てていくか。
いかに、発想を柔軟にし、既存の価値観を疑えるようになれるか。
そこに対応できる場を作り上げていかないと。

古い価値観とプライドにあばよを告げ、新しい感覚を持つことに、よろしく勇気

支援いただけるとより幅広いイベントなどを見聞できます、何卒、宜しくお願い致します。