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分かりやすく言うなら、アートで地域活性化目論むなら、行政に頼らず民間で

先日は横須賀の田浦にあるアーティスト村に訪れたレポを書いた。



この記事では、横須賀市民でもベールに包まれているようで何があるのか分かっていなかったアーティスト村がどのような場所であり、どのような作品を作っている人が活動しているのかを目撃したレポを書いた。
note公式にも紹介されたおかげで、多くの人に呼んでいただけた。(note関係者と読者の方々に感謝します)

記事ではわりと好感よくアーティスト村を書いたが、実は筆者には色々と思うことはある。といっても、別にアーティスト村の存在を否定するような内容ではないが。
ただ、現状のままで続けていて、横須賀市にとってどこまで意味のある存在でいられるのかはちょっと怪しくない? と思えたのだが。

現代アートの解釈は、どこまでいけるのか?

横須賀のアーティスト村に触れる前に、筆者の最近の話をしたい。

先日、もっと美術体験をしたいと感じて、東京都現代美術館に出向いてきた。
目的は、現代アートを体感することであり、現在開催されている
『MOTアニュアル2022 
私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ』展
を楽しむためだ。
先に書いておくが、筆者はもちろん美大出身ではないし、それどころかアート活動をしたことはない。現代アートとなると、コンテンポラリーアートなるものが何なのかも分かっていなかったくらいだ。
その手の浅い知見しか持ってない身でアーティスト村に訪れたり、ヨコスカアートセンターのイベントに参加してみたりしていたのである。
これではいけない、もう少し現代アートの理解を深めていかないと、と考えて、東京都現代美術館に出向いた。また、今後も積極的にアートに対して触れていこうと考えている。


工藤春香氏の作品展示風景と
鑑賞する人々
工藤春香氏の作品展示風景と
鑑賞する人々2
大久保あり氏の展示風景
大久保あり氏の展示風景
良知暁氏の展示風景
手を伸ばす筆者

(作品単体でなく、展示風景なら撮影可能でした。また、高川和也氏の作品はドキュメンタリー映像のためそもそも撮影できません)

筆者の写真を見たところで、読者の皆様が作品を通じて何かを感じ取るのは難しい話だろう。
また、アーティストの皆様には申し訳ないが、この記事では個々の作品の評価を細かく見ていこうとはしない。
では、何を問いたいのか? それこそが、現代アートの解釈の難しさである。

そもそも、現代アートとは何だろう?
アートに深い興味を抱かれている方々なら、そんなこと今更聞くのかと驚かれるだろうが、その一方で多くの人間は現代アートは難しく何を表現しているのかさっぱり分からないという印象を抱いているのではないだろうか?(推測で書いて申し訳ない)
何の予備知識もなく現代アートを見れば、大体が意味をなさない代物でしかないだろう。
例えば、広い空間にボールが一つ転がっていても、条件がそろえさえすればそれは現代アートになる。しかし、その条件、コンテキストを理解していない状態ならそれはただのボールでしかない。
ただ、その文脈を読み取れさえすれば急にアートへと変化していく。

そう、意味がなさそうで実は大きな意味、つまりは『文脈』『問い』が孕んであるのが現代アートなのではなかろうか?

プレジデント社の『アート思考』なる本を買って読んでみたのだが、そこにはこう書いてある。

「では何が現代アートになるための要素なのか。それは考え方に軸足を置くということです。「美」を広く哲学的に捉えて、強いていうのであれば「現代社会の課題に対して、何らかの批評性を持ち、また、美術史の文脈の中で、なにがしかの美的な解釈を行い、社会に意味を提供し、新しい価値をつくり出すこと」といえるでしょうか。  何だか余計に難しくなったかもしれませんが、単に視覚的に〝きれい〟というだけでは成り立たず、むしろ〝美醜〟の基準を超えて、「人間について、視覚的な表現を中心にして、知性と感性を使って今の世界から捉える行為」といってもいいかもしれません。そしてそれはときに歴史的、哲学的、社会的な視点から解釈されるものともいえるのです。  同じ美術でも、美術愛好家が普段見慣れた印象派や古典絵画など、〝美しさ〟という観点で造形的に見ることができる作品とは根本的に異なり、感性を使いつつ、一方で頭の中で解釈を組み立てていくアートなのです。そして、〝考え〟を表明するためであれば、どんな表現メディアや形式を使用しても構わないというところが特徴です。絵画、彫刻、写真、ビデオ、映像、パフォーマンスなど、むしろ方法においては〝何でもあり〟というのが現代アートなのです。」
『アート思考――ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法』秋元 雄史著

そう。現代アートは見た目の美麗さだけが評価軸ではないのだ。単純に、パッと見て「うまい!」「下手だな……」と評価できるものではないのである。
中にはパッと見ではあまりに単純過ぎて自分でも描けるのでは(作れるのでは)と思えてしまうのあるだろうし。
しかし、現代アートはそんな見た目だけの判断が評価軸ではないのでその見方は間違っているのである。作品を通して、そこに孕む哲学や時代背景、作品に宿る感情(しかも、制作者を超えた感情)を読み取らなければならない。一種の文学的アプローチでもあるのだ。

この、工藤氏の作品は、作品を通してやまゆり学園の事件への解釈を問われている。
事件を、福祉や障害者に対する日本の法律を書き写した年表を場におおきく広げることにより、その時代・時の流れを『体感的」に表現している。作品を表出することにより、事件を視覚的に問いかけている。ドキュメンタリー映像やルポなどの文章で克明に問いかけることもできたはずなのだが、アーティストとして現物的な作品をそこに提示することにより、視覚的に事件に対して鑑賞者に問いかけてきた。これを、観たものがどう解釈するのか、それを問われるのが現代アートと言えるのではなかろうか?

○アートを地域活性化に持ってくるということとは

現代アートを読み解こうとなると、表層的な情報だけを観て作品の評価はできない。時に、哲学的思考や社会的問題点を頭の隅に浮上させながら眺めていなければならない。つまり、何も考えずに気軽に観ていられる作品とは言えないだろう。パッと見で「うまいね!」「きれいだね!」などの評価軸しか持てないようでは、現代アートを見ても仕方ないのだ。

問題は、そんな深い視点で観られる人がどれほどいるのかどうかだ。
もちろん、東京都現代美術館のような場に来るような人たちは、最初からそれを理解してきている人たちであるだろうからそれを問う必要はないだろう。しかし、横須賀などの郊外やもっと地方都市などの住人に対してアートを提示して、「うまいね!」「きれいだね!」というわかりやすい評価基準以上の感性を持ち備えている人がどれほどいるだろうか?
決していないわけではないだろうが、地域活性化に貢献できるほどの人数がいるのかは疑問だ。

いや、別に地元の人間に理解されなくてもいい、他所から多くの理解者が訪れてくれれば成功だ!
と考えてしまうのも、あまりにも表層的で単純な思考ではなかろうか?
地域活性化の策は、そこの住人の十分な理解と協力がなければ盛り上がらないはずだ。むしろ、多くの人間が『率先的に』参加して盛り上げてくれる企画を展開できれば、その地域は強くなるだろう。
しかし、アートとなると前提が求められる知識・感性がある。馴染みのなかった人にいきなり押し付けても、深い理解は期待できないはずだ。
それなのに、地域活性化策としてアートを持ってくるのは……。

○では、地域活性化として現代アートを諦めるべきか

では、地域活性化としてアートをもってくるのは諦めるべきなのだろうか?

それはまた微妙なところではないだろうか?
なにせ、アート的感性は現代のビジネス界においても求められている。
それだけではない。現代の世の中においてハッキリとした人生の指標はなくなった。つまり、人生のわかりやすい指標、生き方モデルは存在しないのが現代社会である。そんな正解が曖昧な世の中を生き残るためには、アート的センスが役に立つと言われている。
となると、この地域運営においてもアート的感性は物凄く意味をなすものではなかろうか?
となれば、地域住民にアートが馴染むようであれば、その地域の感性は研ぎ澄まされ面白いことを好む地域になるはずである。また、希望的なことを言えば、この曖昧な社会を生き残れるセンスを住民に与えてくれる可能性も秘めていなくもない。
そうすれば、他地域に住む人たちも一目を置くはずだ。

つまり、アート的感性を育むという意味で地域にもアートは必要なのではなかろうか、ということだ。アート的感性を育む存在として、地域にアートを馴染ませていければ。

しかし、それはすぐに叶うことはないはずである。何年にもわたってじっくりと浸透させる必要があるだろう。
かなり地味な活動にもなるだろう。
そうなると、地域住民が税金使って活動してることをどこまで許すだろうか?

地域活性化に、行政を通してアート活動を入れる必要があるのだろうか?

また、そもそも制度を構築している行政側にどれほど現代アートへの理解が浸透しているのか。この点も非常に疑問が残る。アート的感性のないままに制度を考えているのなら、そこにアーティスト側とのズレが生じるのは容易に予想できる。その状態で本当にいいのだろうか?
筆者自身としては、アートだけでなくeスポーツやアーバンスポーツとさまざまに仕掛けている横須賀の行政に専門チームを展開しているのか疑問に思える。あるのならばいいが、ないのならば今からでもチームを結成し専門職の立場を創設すべきだろう。役所だからそんな臨機応変は望めないだろうが。そのもどかしい体勢だからこそ、行政には期待できない部分は多いのだが。

○民間こそが、アートに適してる

となると、行政を頼らずに、民間の力で地道にアートを地域へ浸透する活動が求められると思われる。

地道に地域にアート的感性が広がった時、初めてアートの活動が理解されて、さらに新たなる発見と発展が見込めるだろう。

行政主体のアーティスト村という形を取るのではなく、まずはアーティスト自身と理解ある市民が協力して民間の力で横須賀市民のアート的感性を研ぎ澄ませる活動に取り組められれば。

そういうことを感じてならない。
そのための施設や企画を地味にでも徐々に展開していくことが求められるだろう。
例えば、今も時々行われているアーティストが講師となって行われている制作講座をもっと身近に展開したりできれば。
カフェや会議所などをもっと活用することも望まれる。現代アートならば、時に路上や商店街などもパフォーマンスの場にしていいだろう。
横須賀では、かつて『大人の文化祭』なる活動も行われていた。再度イベントを復活させるか、新たなるアートと市民をつなげるイベントを仕掛けてもいい。別に大規模に展開させる必要はない。最初は小規模だっていいのだ。目的は、アート的センスを養うことにあるのだから。

そのためには、今いるアーティストだけに頼るのは厳しい。もちろん、外から読んでくるのも大切なことだが、そこで求められるのが市民の力なのだ。

また、ヨコスカアートセンターのような場の存在も興味深い。もっと市民の人口に膾炙するようであれば、市民のアート的センスも上がり面白い土地になるはずだ。

まずは、地道にアーティストと交流を通すことにより、市民自身のアート的感覚を研ぎ澄ますところから始めなければ。市民が率先して現代アートを嗜む土地となれば、それ自体が魅力を発するはずだから。



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