見出し画像

三原初上陸と秋の宮島記録

 仕事が一段落したので、やっと旅行らしい旅行に出かけてきました。
 今年は夏が長く、気温の高い日が続いたこともあって全国的に紅葉シーズンが遅れた(もしくは紅葉しないまま終わった)場所が多いと聞いてましたが、ずれこんだ今ならちょうど良いのでは!? と思って一年ぶりとなる宮島へ。その前に、どうせなら行ったことのない場所にも! ということで、広島は三原市、そして宮島へと足を運びました。
 今回は広島出身かつ毛利氏ファンである友人に案内してもらったので、普段自分が気づかない箇所にも目が行き楽しい旅となりました。

 まずは三原から。
 三原市は毛利元就公の三男、隆景公が治めた土地。隆景公は12歳頃に竹原小早川家を相続、その後本家となる沼田(ぬた)小早川家を相続しました。小早川家の城である高山城、新高山城と移り、永禄10年には三原城の築城を開始。三原駅周辺には隆景公が婿入りをした小早川家由来の寺社や、彼が行った貿易、情報の要となる海運路の跡を追うことができました。
 今回は新幹線で到着したJR三原駅を貫くようにして残る三原城跡からスタート。

歴史広場から見た本丸跡(天守台跡)

 三原城はかつて、海に向かって本丸を臨み、直接舟入できる港としての役割を備えた海上城郭だったそうです。満潮時には海の上に櫓の数々が浮いているように見えたことから、別名を「浮城」と呼ばれました。
 三原城を案内する看板の数々にその歴史が記されていたのですが、とにかくよく出てくる「JR山陽本線および新幹線が本丸を貫き」という言葉、こっちとしては「どうして貫いた???」と疑問符いっぱいでした(笑)本丸の水堀と三原城(本丸)を避けて駅造ればよくなかった!? そういうことじゃ……ない……!? 明治期の三原のえらい人々、どうして本丸貫こうと思っちゃったんだろう。市史とか読めばわかるんでしょうか……。

「本丸を貫」いている、JR三原駅。見えている窓のすぐ向こうは新幹線のホーム。
ホームから本丸跡が見える造りなのだ。

 本丸跡地に乗っかるような形でJR三原駅があるため、往時に本丸を囲んでいた水堀の一部もそのまま、駅に食い込むように残っていました。

よく見ると、石垣の組み方に違いが出ていることが分かる。

 この堀の石垣が小早川氏時代と、後の福島氏時代で変化が見られる部分も非常に面白く、駅前の広場と合わせ、よく整えられておりました。元々は海に隣接する形であったためか、堀の内部に見える藻が海にあるそれに近い形をしているように感じられたのも、土地ならではのものだと思います。
 水堀内には現在、広島県が誇る錦鯉が放流されて、これもまた絵になる様子。きちんと決められた餌を与えて管理されているそうで、大きく肥えまくっていたのが印象的でした。広島県民友人に言わせると、やはり鯉なので大事にしているのでは……とのことです(カープ的な意味で)

遠距離から見ても「でかい」と分かる大きさ。本当に大きい。

 駅から歩いていける距離の寺社仏閣、城下町にあたるだろう細くて旧家の並ぶ通りなどを散策したり、銘菓ヤッサ饅頭の本店でお菓子を購入したり、土地の空気を味わうのんびりとした半日を過ごしました。特に、旧市街地とも呼べる寺町側は、土地が高くなっている場所に行けば行くほど道幅が狭く、人気のないこともあって映画のスタジオにでも来たような感覚でした。

「ノスタルジック」とはまた少し違うような。
寺の山門近くにあったモミジの葉は見事に色づいていました。

 海側は「浮城」の名に恥じぬ造りというか、港としての交易拠点と、地の利を生かした防御拠点の役割を兼ね備えた位置関係なのだなと、歩いてみるとそれがよく分かる。海岸線は当時に比べて埋め立てられたりしていますので、すべてそのままではありませんが、市内は至る所に史跡を案内するための地図などが置かれているため、見比べるのに不便はしませんでした。地元の方がこうして動いている痕跡があるのは素晴らしいことだなと思います。

 特に感動したのは舟入櫓跡。

舟入櫓跡の石垣。一番下の茶色っぽい石が天然の岩礁を利用したもの。
まだ残っていることに驚き。

 当時はここが海岸線の先端。領外からやってきた船を見渡すことができる高台に、関所(ゲート)の役割を果たす施設があったのでしょう。今でも入り江から流れ込む水の動きを一部ですが確認することができました。また、土台となる石垣は築城当時のままで、一番下の部分は岩礁を利用した天然のものとのこと、これにとても感動しました。今なお残っていることもですが(海の波で削られてしまいそうだし……)当時の人々が安定しないこの岩場の上に石垣を築いていったことにも驚きました。よほど腕のよい方たちを抱えていたんだろうなあ、隆景公。
あるいは、地元の海のことをよく理解した、地元の人々の協力あってのことなのかもしれません。
 もしそうだとすると、よく毛利三子のうち、次男元春と三男隆景は、父元就公の調略により他家を乗っ取る形で息子たちを送り込んだ……などと揶揄されますが、経緯はどうあれ、入った土地の人心をよく治めたのは隆景公の(あるいは、元就公の)手腕でしょうから、治政に関して良い領主だったのではないか、と思いました。今回は三原駅周辺のわずかな場所しか回っていませんが、それでも隆景公が大切にされて地元の名士、殿様として位置づけられていることは感じましたので、この土地の人々から受け入れられていたのはあるんじゃないかな、とも思います。

 次に向かったのは宮島。言わずもがな、平清盛公が建立したことを始め、かの厳島合戦の舞台となった神域です。
 神域というと大仰ですが(今じゃ広島のメイン観光名所ですし)由来を辿るとそうしたことも分かるので、何より大変美しい景色が一年中見れるとあって、私も好きな場所です。海、そんなに好きじゃないけど宮島で見る海は好きです。

入島してからしばらくのこと、ちょうど舟が通りかかっていてよい写真が撮れました。

 今回は前述した毛利氏ファンの友人がいたので、自然と多くなる厳島合戦の話。
 陶晴賢(隆房)は、現在五重塔と千畳閣(豊国神社)がある小高い場所へ布陣し、勇士として名高い弘中隆兼はそこから厳島神社の方角にある多宝塔の位置に布陣をしました。

こちらはetto宮島交流館(宮島まちづくり交流センター)側から見た五重塔。近くよりずっと良いアングルなのですが、歌川広重の絵みたいにうまく塔の半分だけ切り取って描写! なんてできなかったな……。

 毛利軍は海上および陸上、陶軍の背後である要害山と入江側を占拠して攻め立てました。本来なら高所、それも先に陣を張った陶らに毛利軍の動きが見えないはずはなかったのでしょう。宮島も400年前と比べて海岸が埋め立てられ、現在連絡船が止まる港は、かつて海でした。おまけに、決戦を控えた時になって海域では非常に大きな嵐が起こり、渡航ができないほどだったそうです。(以前の記事では、近年におきた大きな台風の状況を思い出しつつ、このことを書きました。)普通なら船も渡れないところを、毛利軍は無理矢理に、それも夜のうちに渡りきり、陶軍が気づかないうちに陣取りできた……というのは有名なお話。

宮島といえば、もみじ饅頭でしょう。これは小さいサイズが8個入って、好きなソースをディップして食べる「COLOCOLO MOMIJI」。ちなみにピーナッツバターソース。

 前に行った夏の時期には一人で合戦の舞台となる場所をあちこち回りましたが、やっぱり二人いると話が倍になって楽しいですね。厳島神社でお参りした後は、宝物殿と歴史民俗資料館にも続けて立ち寄り、めいっぱい宮島の歴史を感じてきました。
 それに一人だと食事にムラが出てしまうんですが、友人おすすめの店舗で食べ歩きしたり、桜尾のクラフトジンとやらも飲んで、これがまあめちゃくちゃに美味しくて非常にご機嫌な宮島観光となりました。

ひとくち海老天おむすび。めっっっっっちゃ美味しい。ほどよく温かく、ほどよい一口サイズ。塩加減も最高。人並に疲れた人間をいやす嗜好の食べ物、おにぎり。

 そして今回、お土産に買った宮島名産品の「杓子」。実際に使用できるサイズのものから、贈答用の巨大なものまである中、今回購入したのは根付けサイズのかわいいものです。

宮島しゃもじ専門店「杓子の家」にて。
かわいい。文字だけのタイプもある。

商品を購入すると、サービスで裏面に名前などを入れてくれる、ということでしたので、こちらの根付けに私も入れてもらいました。

本体700円+100円で「二人分」の名前を記入してくれる。一人分なら無料。

 フルネームは流石に長すぎたので、名前のほうを二人そろって入れてもらいました。宮島で大負けした大内家臣コンビ。
 別にふざけてないです、本気です。
 「必勝」とか「負ける気がしない」とかいう文言もあったんですが、友人と選びながら「どう頑張ってももう負けてる」という結論になったので、陶晴賢公と弘中隆兼公(字画の問題で「包」のほうにした)ずっ友表明することにしました。同じ年に生まれてるもんね~~~!!二人とも元春公の義理兄なんだしずっ友だよな~~~!!(オタクの謎理論)

 最後に買い込んだお土産を披露して今回の記事は終わりにします。楽しかった~~~! 楽しいよ広島~~~!! 次は桜尾ジン買って帰ります!!

揚げもみじは多分、神の食べ物。奥は「SAKURAO GIN」をトニックウォーターで割ったジントニック。これが! めちゃくちゃ! うまい!!! 圧倒的感謝っ……!


閲覧いただき誠に有難うございます。よろしければサポートでの応援よろしくお願いいたします。史跡巡りや資格勉強の資金にさせていただきます。