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『細川侯五代逸話集』

タイトル:細川侯五代逸話集
著者:大島明秀
ジャンル:小説、説話、論評
発行年月日:2018年1月24日
発行元:熊日出版
備考:近世後期に編纂された逸話集「随聞録」には、細川家初代当主幽斎(1534~1610)から五代綱利(1643~1714)治世に至るまで、予想を裏切る行状がふんだんに収録され、歴代当主と家臣の意外な人となりがありありと描かれています。当時の人々にとって〝史実〟以上に〝真実〟であった逸話というもう一つの歴史。本書は、「随聞録」全五十五話の現代語訳と原文(校訂版)を初めて活字化し、歴史的な背景を踏まえながら分かりやすく解説しています。

感想

 「随聞録」とは細川幽斎公から数え五代綱利公に至るまでの逸話集である。江戸時代後期に編纂され、写本で流通したそうだ。

当時の人々にとって「史実」以上に「真実」であった「逸話」というもう一つの歴史。本書は全五十五話の現代語訳と原文(校訂版)を初めて活字化し、分かりやすく解説している。

カバーそで文より

 細川家五代にわたる「逸話」の数々を現代語訳化し、さらに元となった資料の所在や底本とした上妻版校訂「随聞録」、さらにそれを補足した原文をまとめた一冊だ。
 細川家にまつわる逸話を、現代語訳でさっと取り出せるのは一般庶民にとって非常にありがたい。中には綿考輯録に類話が見られるものもあり、細川家の正当な歴史書として受け継がれてきた文書から、一般に伝えられてきた話があったと考えると興味深い。当時の人々(細川家の逸話集だから、やはり肥後国の人々が主だろうか)にとって、藩主/殿様がどのような目で見られていたかということにもなろうし、実際に逸話の内容を裏付けるような書状が残っていたりするものもあって、この「史実」と「逸話」の境界線とは実に曖昧だと感じる。
 だいたい、残っている書状というものは立場もあってか公的な文書が多く(細川家や伊達家などは個人的な手紙も残っていたりするから、この限りではないけれど……)感情を差し挟まないもののほうが多いと思うが、逸話の中では人柄というものも見えてくるから楽しい。
 とりあえず、忠興公と妻玉子(ガラシャ)様にまつわる逸話は血なまぐさいものが収録されており、「忠興様が急に上の句振ってきて玉様が戸惑うことなく下の句を返したってやつも載せない!?」と思う傍ら、まあこの二人だしな……お似合い! と思ったりもするので、オタクは勝手である。

 ここからは余談。

当時の人々にとって「史実」以上に「真実」であった「逸話」というもう一つの歴史。

 私は筆者のこの言葉に感銘を受けた。まさにその通りだな、というのが正直な気持ちである。
 最近は歴史ドラマや歴史小説に文句をつける人が多いと感じている。別に、物語に感じる「良し悪し」は、口にする本人の好みや得手不得手に等しいと思っているから、あって当然だ。誰だって好みはある。好きな展開があれば、苦手なものだって同様に存在する。
 けれどそれ以上に「こんな描写は史実にない」とか「この設定は間違っている」と、重箱の隅を突くように追いかける人々が一定数いるように感じてしまうのは、どうなのだろうと常々考えている。(私が気にしすぎなのかもしれないが)現代を生きる私たちは多かれ少なかれ、誰も「当時のこと」は分からない。
 確かに、この細川家のように連綿と続けられてきた営みの軌跡をたどることができる箇所もある。しかし、それだって断片に過ぎない。「人間」という存在を扱う以上、過去から見て未来にいる私たちが知ることのできる情報などほんの僅かだ。私は忠興公の顔を知らない。声も知らない。しゃべり方、日常の癖、食べ物の好み、何も分からない。けれど、残されたわずかな情報を、先人たちが大切に守ってくれた情報のかけらを見ることができるから、想像し、あるいは一瞬の輪郭を感じて、「こんな人だったのだ」と思うのだ。
 私はよく「物語はすべからく虚構(フィクション)だ」と言っている。媒体がなんであれ、物語になった時点でそれは「完全なる史実」ではない。司馬遼太郎先生や池波正太郎先生などはそのあたりが実に巧みで、「嘘か本当かわからない」ほど当時の時代考証をふんだんに盛り込み、物語に奥行きを持たせていたからこそ「面白い」作品だったのだ。これはもう歴史に対する嗅覚というか才能というべきものだと思っている。「史実」の前後に見える、ほんのわずかな「虚構」、つまり「逸話」などのたぐいを拾い上げ、あるいは土地に残されている「伝承」や「習慣」を組み込み、あたかも「史実」のような彩りを描き出すから、誰もがそれを「真実」だと思ってしまったのではないだろうか。
 話がずれにずれているが、要はこの本で筆者が言うように、いつの時代も私たちは『当時の人々にとって「史実」以上に「真実」であった「逸話」というもう一つの歴史』を好み、親しみを覚え、語り継いできたのではないだろうか、ということだ。

 だから、というわけではないが、「史実ではない」からと言って世にある様々な歴史作品をつつき回す必要はないと思っている。史実は史実として、逸話は逸話として、そして物語は物語として楽しめば良いのでは、と私は思う。

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