泣くことで「人間だ」と自覚する
昨日、久々に泣いた。
感動的な泣きではなく、悔しくて泣くやつ。
これは時代錯誤も甚だしいことかもしれないけれど、成人男性が悔しくて泣くってクソダサい。
本当ならこんなnote書きたくないはずなのに、「おもしろいからネタにしよ」というぶっ飛んだ思考回路が構築されてこれを書いている。
そんなダセえ話を今日はしたい。
「悔しい」をもっと具体化していうと「言いたいことが言えない」というやつ。
相手は僕のことをむちゃくちゃ褒めてくれた。
「くろだはこれもできるし、あれもできる。なんでもできるよ」という感じ。
だけど僕は相手が思っているほど有能じゃない。
パソコンが使えると褒められた。
しかしこの現代で「パソコンが使える」なんて当たり前だ。
しかも「パソコンが使える」の中身は、「文字が打てる」だの「クラウドにあげてデータ転送できる」だのというものすごく当たり前の技術。
「パソコンが使える」というのは、「プログラミング」とか「画像、動画の編集」とかという表現媒体として使うことを言うと思う。
たしかにnoteを書いている(相手はそれを知らない)。
だけど「文章を書くこと」は、表現の一番楽な方法だ。
アカウントを作り、ネタを考え、タイピングすればいい。
ローマ字という義務教育で習うことをただ実行すればいい。
それだけで「パソコンが使える」と言えるなら、誰でもできる。
さて、自虐は終わりにしよう。
僕が「誰でもできる」と思っていることが、実は僕特有の「できる」だったりする。
例えば、理科が好きな人は「誰でも勉強すればできるよ」と言うだろうが、僕からすれば「勉強する」ができないのである。
もう本当に化学式なんてものを一生見たくない。
それくらい苦手だ。
要は「当たり前にできる」が実は当たり前じゃない。
「お前はすごいヤツなんだ」ということを相手は僕に言いたいのだと思う。
褒められることは嬉しい。
「ありがとう」と言いたい。
しかし昨日は結構辛い時だった。
その時思ったね。
褒められて「ありがとう」と言うのって、余裕があるからできることなんだと。
ものすごく言い返したかった。
「俺はお前が思っているほど有能じゃない。これができると言ったな。だけどそんなことは誰だってやればできるのだ。」
自分の言い分を通すための理論はいくらでも出てくる。
しかしそれを言われた相手の気持ちだって理解できる。
褒めを否定されることほどやるせないことはない。
しかも褒めたい本人に否定されるのだ。
なんとかそれは回避したい。
「ありがとう」と言いたい。
だけどその褒めは間違っていると思う。
それに対する理由はいくらでもある。
そんなせめぎ合いで脳が決壊した。
あれは「涙腺崩壊」じゃなくて脳の制御システムが決壊したね。
泣きじゃくる自分とは別の、俯瞰から見ている自分がいて、そいつが「次の手」を考えている。
とりあえず泣いて時間を稼ごう。
落ち着いたら少し反論して、でもヘロヘロな返答は相手にかする程度で何のダメージにもならない。
そして「褒めてくれてありがとう」のフェーズに持って行こう。
本当にクソダサい。
人前で泣くのもそうだし、裏に冷静な自分がいると思っている感情もクソダサい。
そしてこの出来事を、翌日ネタにして冷静な感じで分析している文章を書いている自分は「ダサい」を通り越して「キモい」である。
よかった。
僕も人間だった。
相手が言うような「なんでもできる僕」は存在しない。
僕は無能である。
しかしだからといって「幸せになれない」ってわけじゃないし「楽しめない」ってことでもない。
僕の幸せを目指していくし、僕らしく楽しんで行く所存である。
以上!くろだでした。
読んでくれてありがとうございました。
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