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名町長の活躍で残った城と温泉/「坂の上」の街で子規を知る/松山市

「日本の城下町を愉しむ」一覧
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★都道府県 愛媛県
★城郭 松山城

 松山といえば松山城と道後温泉。外国人観光客も押し寄せる2大観光地だが、このいずれもが、一人の男の命を賭け、妻の死を乗り越えた活躍で今に残る。
 伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)という。松山藩士で幕末には私塾を営み多くの門弟がいたが、明治維新時すでに40歳、息子に家督を譲ってこの時から「伊佐庭」を名乗る。道後の古社、伊佐爾波(いさにわ)神社にちなんだ名で、郷土愛の深さが知れる。
 その後は県の下役人の時に政府の廃城令を知る。松山人の心の拠り所である城の破壊を惜しんだ伊佐庭は、県令を説得して城の公園化を提案する。さらに地元経済人に費用を出させ、1874年に聚楽園として開園する。当時としては甚だ稀有な事で、おかげで我々は、松山城本丸の21棟もの重要文化財城郭群を見ることができる。
      ◇
 その後伊佐庭は内務省に勤務し、のち金刀比羅宮の禰宜となる。そこへ郷里の有力者たちが訪れ、道後湯之町の町長就任を懇願される。道後温泉は聖徳太子も入ったという古湯だが、建物が老朽化し、海運の発達で増えてきた湯治客をさばくには小さすぎた。その改築を伊佐庭の手腕で実現してほしいというのだ。
 1890年、実に62歳で伊佐庭は町長となり道後温泉改築に取り組む。その際、当時の年間温泉収入が200円程度の中、13万5000円という巨費をかけ、新しい温泉建物を建設することを提案する。「100年先まで真似のできない建物を」との将来を見据えた計画だったが、額の大きさや温泉に手を加えること自体への反発から騒動になり、竹槍や刃物を持って威嚇する人間まで現

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