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静かな日々の怪談を

二十歳で上京してきて友達の家に転がり込み、二十二歳のときにその部屋から引っ越して一人暮らしを始めた。
しかし、今考えるとあれは本当に“一人暮らし”だったのだろうか、と疑問に思う事がある。

「これは友達に聞いた話なんだけど…」で始まる怪談はよく聞くが、これは正真正銘、僕が実際に体験した話だ。

玄関を開けると、まっすぐ奥に伸びる狭い廊下。
向かって右手にはユニットバス、左手には洗濯機を置くスペースと、申し訳程度に設置された小さな台所。
そして、その廊下の先にある、七畳の居住空間。
そんなよくある間取りのワンルームで暮らし始めて、しばらく経った頃だった。

夜遅くに帰宅し、玄関を開けて廊下の電気をつけようと暗がりの中、何の気なしに手探りでスイッチを探していると、部屋の奥から

「んんっ…」

と、静かに咳払いをする女性の声が聞こえた。

ピタッと動きを止める僕。
息を殺し、どんなに耳を澄ましても、それ以上は物音一つない。
自分の心臓の音が、自分の耳にまで届いてくるほど高鳴っている。

一旦冷静になりたかった僕は回れ右をして部屋から出て、彼女(今の嫁)に電話をした。
心霊的な怖さもあったが、「誰かが犯罪目的で部屋に潜んでいる可能性」というのを考えると怖かった。

気が動転している僕は電話が繋がった瞬間に
「なんか、部屋に女の人が居るかも」
と口走ってしまい、危うく喧嘩になりかけたが、落ち着いて事情を説明し
「急に通話が切れたり、俺の身に何か起こったと判断したら即通報するように」
と伝えて、電話を切らずにそのまま部屋に突入した。

結果としては何もなかった。
見知らぬ女性の姿は勿論の事、部屋の様子も出かけたときと何も変わらない。

「聞き間違いか、隣の住人の声が聞こえただけだろう」
そう思い直し、その日はそのまま何事もなくシャワーを浴びて眠りについた。

昔から僕は“その手の事”は深く考えない。
オバケだなんだ、というものも否定はしない。
なんならそういった、科学では説明できないものの一つや二つくらいあった方が浪漫があっていいじゃない、とすら思っている。
生憎、僕はバッチリと見たことはないけども、
「まぁそういうのもあるかもね」
くらいの考え方だ。
故に、そういうスタンスだからこそ、日常に於いて
「あれっ、今の…」
という場面に出くわしても無意識のうちにスルーしてしまう。
深く考えるとろくな事がないからだ。
もっとはっきり言ってしまうと、
あまり真正面からそういった事を捉えたら怖くてやってらんないからだ。
やってらんない。ほんと。
いい歳した大人が情けないかもしれないけど。怖いもんは怖いじゃん。
だから僕は深く考えない。

「あー、気のせい気のせい」
「まぁ、そういう事もあるかもねー」

極力、これで済ませようとする。

「そんな事よりも今日の晩ご飯は何かしら」

と深入りしそうになる思考に思い切り背を向けて逃げる。逃げるが勝ちだ。

要するに、こういった性質というのは、僕なりの防衛本能のひとつなのだろう。


毎日、家を出るときに、かけた覚えのないドアチェーンを外すときも。

お風呂の排水溝に明らかに長い髪の毛が絡まっていたときも。

電話をかけてきた相手から「誰かいるの?」と、誰も居ないのに聞かれたときも。

帰宅したら部屋でドライヤーがゴォゴォと音を立てて放置されてたときも。

そして、「やべ、消し忘れたかも」と(ありえないけどね)慌てて消すも、まるでつい今しがた電源を入れたかのように吹き出し口があまり熱くなってなかった事も。

すべて、
「まぁ、そんな事もあるかもね」
で済ませてきた。

友人からは散々「異常だ」と言われた。
「いや、多分、気のせいだから。全部」と答えたら

「だから、それを“気のせい”の一言で片づけてるお前が一番怖い」

と、よく突っ込まれた。

しかし、そんな僕でも流石に
「あ。これ、やばいかも」
と思った事がついに起きてしまった。

感覚的に朝方だったと思う。
部屋で寝ていると突然、キーンという耳鳴りと、立ち眩みに似た眩暈を感じた。僕はこの前兆を知っている。
金縛り、というやつだ。

金縛り自体は中学生くらいの頃から何度もなっているし、別に珍しい事でもない。
それにあれは怪奇現象でもなんでもない。
簡単に言ってしまえば、頭は起きているのに体が起きていない、というだけの事だ。確か。
カラクリさえ理解できていれば、怖くもなんともない。
むしろ「ちっ、鬱陶しいな」とすら思っていた。

徐々に体全体を真綿で締め付けるような感覚に襲われ、四肢の自由が奪われていく。
まだ本来目覚める時間まで数時間くらいあるはずだ。
「早く終わんねーかな…」
なんて思いながら、呑気にただ時が過ぎるのを待っていた。

ふと、体の左側に人の気配を感じた。

伝わるだろうか。
なんというか、鼻が詰まっている人が無理して鼻呼吸をしようとする際に鳴る、あの空気の抜ける音。
あれが左側から聞こえてくるのだ。

ただ、この現象に対しても僕は「はいはい」と全然相手にしていなかった。
金縛りというものは「入眠時幻覚を伴う睡眠麻痺」と定義されていて、この変な現象も、言ってしまえば全て夢みたいなものだ。

実家に居た頃には、金縛り中に母によく似た母じゃない女性に枕元で延々恨み言を言われたりする幻覚を見たこともあるし、天井の木目がぐにゃりと歪んで段々と鬼のような形相の人の顔に変わっていく幻覚も見たことがある。

「わかったわかった」
と。
「今日はそういうパターンね」
と。

まったく相手にせずに、そのまま寝ていると徐々に気配は遠ざかっていく。
そして、それと同時に体を締め付ける感覚も少しずつ薄れてきていた。

ようやく寝直せる。
そう安堵し、寝返りを打とうと体に力を入れた瞬間、

「気づいてるんでしょ?」

と左耳のすぐそばで女性の声がした。

開けかけていた両目を力いっぱい瞑り、布団を頭から被って震えた。
幻覚だ。幻覚に違いない。入眠時幻覚という現象の残滓だ。そうに決まっている。

そう思っても、流石にこの出来事だけは怖くて、今思い出しても全身が粟立つ。

つい最近。
そんな独身時代の思い出話を、嫁に話したら大層怖がってくれて、僕は密かにほくそ笑んだ。

「まさか、その女、この家につれて来てないでしょうね?」

「やめてよ、怖いな。それにどうせ気のせいだよ、全部」

なんて会話を交わし、ふと沈黙する。

嫁も同じことを思い出して黙り込んだのではないだろうか。

娘が喋りだしてすぐの頃。
寝室に敷いてある僕の布団の横を指さして、

「おねえさん」

と言ったことを。

……まぁ、そういう事もあるよね。
気のせい気のせい。

お金は好きです。