「我思う。ゆえに我あり」だがその我すらも縁の結び目に過ぎない。結び目が新たに縁の手を伸ばし、結ばれて、また何らかの在るが生じるけれど、それは刹那的でうたかたな存在だ。すべては常にたゆたい、確固たる在るはないが、唯一のあるがままだけは悠然とそこに、在る。

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