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【人間】共感共苦


共感ということについて。






私は私であります。

でも同時に世界でもあります。

そして、全てを超越する存在と世界も、その根底において繋がっています。

ここでは超越的な存在を神と呼ぶことにします。



私は私でありますが

同時に世界でもあり

また、神とも不可分性がありません。



私は主観をもって世界を観測します。

ですが、神も世界を眺めています。




宇宙には無数の自我がありますが

そのすべてが各々の視点で世界を視て

すべてと繋がる神も、また世界を視ます。




それは、無数の視る者も視られる者であり

無数の者が唯一の観測者でもあり

視る者も視られる者も

渾然一体とした一つの存在であることを意味します。




一つの存在ではありますが

同時に無限に分かたれた存在でもある。




道端を歩いている男の子と出会ったら

私は男の子を観測する者であり

また、男の子から視られる者であり

私は男の子でもあり、男の子は私であり

そして、世界でもあり、神でもあるのです。




でも、そのことを実感することはできません。

私が私であることも確かなことであり

目の前にお腹が空いている人がいても

私は空腹ではないことも、また確かなことなのです。





私が神や万物に繋がり、その全てであると同時に

私は私でもある。

そして、その二つの事象とも真理である。




共感とは、自我に重きをおかず

私とあなたが、その根底において繋がっていることに気づくことです。

苦しみを共にすることです。




似たような言葉として

同情

というものがありますが、これは共感とは少し違います。




私からあなたへの評価に基づいて、同情ということは成されます。

「かわいそうだな」「不幸そうだな」

という、私の主観に基づいた意味付けを、あなたに行います。

そして、そのフィルターを通して、あなたを眺めることです。




私という存在が、可能な限り薄まった時

あなたとの共感を果たすことができます。




個々の別人格が、思いを共にすることについて

オカルトじみた話に聞こえるかもしれません。




ですが、一人の人間と虚心坦懐に向き合った時

共感は確かに起こるのです。




私は私でありながら

あなたでもあり

神でもある。




その領域は、自我という個の境界が限りなく弱い状態なので

客観性も薄くなり

言葉という分別の道具も効果が小さくなるので

言い表すことが、とても難しい状態でもあります。



なので、理屈で誰かに語ることが困難で

オカルトじみた話に聞こえてしまうかもしれませんが




人と人の思いは共感します。

体験をもってしか、そのことを実感することはできませんが。




泣いている人がいたら、それは私であり

成績が良くて喜んでいる人がいたら、それも私であります。

足が不自由な人がいたら、その人も私であり



そして、私もその人なのであります。





その共感をもってして、心のままに生きること。

それは「愛」に連なる道ですが

実際に、体と心で共感共苦を味わってみなければ

道を歩んでいることを、確信することはできません。




ただ、難しいことではないと思います。

複雑な論理や、社会的な体裁は気にしなくていい。

苦悩している隣人の手を、そっと握って

その時に、起きる思いに心を委ねれば良いのだと思います。

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