見出し画像

【心得帖SS】心から「シアワセ」を願う(後編)

翌日…。
「ていッ!」
「痛っ!」
ぼうっとロビーを歩いていた京田辺一登は、後ろから頭をチョップされて振り返った。

「何?麗子さん」
名前を呼ばれた忍ヶ丘麗子は、彼の周囲をカツカツ回りながら鼻をひくつかせている。
「ワイシャツもパリッとしてるシ、髪も髭も整っていル。どうやら紗季チャンとワンナイトラヴした訳じゃなさそうネ」
「あなた真顔で何を言ってるんですか⁈」
「冗談ヨ冗談」
彼の肩をポンポンと叩いた麗子は、ふうんと頷いて話を続けた。
「その様子だト、紗季チャンに告られたところまでは本当みたいだネ。そして一登クンから振ったカ」
「うっ…相変わらず鋭いなぁ」
「何年一登クンを見てきたと思ってるのヨ」
彼の顔をじっと見た麗子は、少し意外そうに首を傾げた。
「…とてつもない修羅場を想像していたけれド、上手く行かないなりに着地点をお互い見つけたみたいネ」
「まあ、そんなところかな」

「そっか…紗季チャンは乗り越えたのか…」
少し寂しそうな表情を浮かべた麗子は、すぐにいつもの調子を取り戻して、彼の背中をバンと叩いた。
「背筋をちゃんと伸ばス!最後まで彼女が目標としている素敵な上司の姿を見せてあげなさイ」

京田辺がオフィスフロアに入ると、少し瞼を腫らした四条畷紗季がいつもの席にちょこんと座り、愛用のタンブラーでカフェオレを飲んでいた。

「おはようございます、課長」
「ああ、お早う四条畷さん」

デスクの脇に鞄を置いた京田辺は、袖机からマグカップとドリップコーヒーを取り出して、給湯コーナーに向かう。
後ろから「むぅ」と言う不満気な声が聞こえてきた。

(…分かっているけど、最初は結構勇気がいるんだって)

自らにそう言い聞かせながら、彼は電気ポットに水を注いでいった。


「…という訳で、4月1日付で営業二課の四条畷さんが本社マーケティング部に異動することになりました」

翌朝、課の朝礼にて京田辺の口から紗季の異動が正式に発表された。
「向こうとこちらの業務引継や引越しの手続き等、大変だと思うので、ぜひ周りの皆さんもサポートをお願いいたします」
「紗季さん、おめでとう」
「本社かぁ、頑張ってね」
「ううっ、寂しくなりますぅ」
周囲のメンバーが彼女を囲んで祝福の言葉を掛ける。
「皆さん…有難うございます。まだまだ実力不足ですが、この場所で得た経験を活かして精一杯頑張ります」
笑顔で彼等に応えた紗季は、その流れのまま京田辺に目を向け、じっと凝視した。

(…約束ですよね。早く言ってください)

(うっ…分かったよ…)

覚悟を決めた京田辺は、努めて自然に聞こえるように話を始めた。

「では紗季ちゃん、引継スケジュール等の打合せをお願いできるかな?」
「はい、いつでも大丈夫ですっ!」
彼の言葉に、紗季はパアッと顔を綻ばせながら大きく頷いた。


「えっえっえっ⁈いまボスが紗季姐のことを名前で呼んだんだけど」
「先輩の姐さん呼ばわりも十分ヘンですが、あの2人、急に仲良しさんになりましたね」
動揺している住道タツヤの元に、大住有希がニヤニヤ笑いながら近付いてくる。
「これは…ひょっとしてひょっとするのでは」
「何と、そしたら姐さんの異動でいきなり遠距離恋愛に突入⁈」

「…あの2人はお付き合いしていないわよ」
モヤモヤしている2人に、星田敬子が声を掛けた。
「昨晩サキサキ本人から電話で聞いたもの。明け方まで捕まったお陰で超寝不足」
ふわぁと欠伸をした彼女の目の下には、大きなクマが出来ている。
「じゃあ、課長の紗季ちゃん呼びは一体?」
「確か、慰謝料、みたいなことを言っていたかしら」
敬子の口から何やら物騒なワードが出てくる。
「違った、お餞別…褒賞かな」
「それって全然意味が違いますよぉ」
ガクッと膝を付くタツヤ。
「…あの光景も、来月から見られなくなるのですね」
有希がしみじみとした口調で呟いた。

ペンを挟んだ手帳を小脇に抱えて歩いている京田辺の後を、半歩ほど遅れて小走りで追いかける紗季。

2人は恋人同士と言うより、ある種の師弟関係に近い雰囲気を纏っていたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?