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日本の少子化は明石家さんまのせい!?

明石家さんまという人は、お笑いを日本の芸能の頂点に高めた一番の功労者である。

お笑いの地位を高めたという点では、萩本欽一や北野武を思い浮かべるかもしれない。もちろん彼らも大功労者には違いない。

しかし、萩本欽一は、それまで底辺とされていたお笑いを「市民権を得る」ところまで高めたということだ。決して頂点ではない。また北野武は、映画など他の分野で目を瞠る成果を上げたことで日本芸能界の頂点に上り詰めた。明石家さんまとともに大功労者ではあるが、やはりお笑い1本で40年に近くにわたって第一線を張っている明石家さんまが、お笑いの地位向上という意味では飛び抜けているだろう。

それまでのお笑いは、俳優や歌手を引き立てる役回りでしかなかった。カッコいいのは役者はミュージシャンであって、お笑いはそれらを引き立てる役回りでしかなかった。

しかしその状況は、明石家さんまの登場で一変する。

私は一つ、覚えているテレビのシーンがある。明石家さんまがバラエティ番組で萬田久子と共演した時のことだ。

萬田がなにか言おうとしているのだが、その前のくだりから笑いが止まらず、なかなかちゃんと喋れない。そのときさんまは「芸能界の大先輩の大女優にこんなこというのは申し訳ないんやけど・・・」と前置きした後、思い切り声を張り上げて「しっかりせい!」と言い放ったのだ。

今なら何ということもないシーンだろうが、当時はお笑い芸人が女優さんに上から叱るなどという構図は見たことがなかった。当時小学生の私など、びっくりしながら笑い転げたものだ。

お笑いが他を抑えて、日本の芸能のトップに立った瞬間だと、全く勝手ながら考えている。

役者という職業は自己陶酔の世界である。ある程度、自分のことをカッコイイ(あるいは可愛い、美しい)と思ってないと成立しない。自分が不細工などと思っていては決めポーズなどできないし、自分の恋愛している姿を他人に見せるなど、恥ずかしくてやってられない。

音楽家、とくに歌手などもそうで、人前で振り付け付きで歌うのだから、根本的に自己陶酔しないとできない職業である。

お笑いは違う。お笑いは客観視の世界である。常に自分と周囲を俯瞰し、何が普通で何が異常か、今が客観的にどのような状況か、常に把握していなければできない。自己に陶酔することなく、常に冷静に「空気を読む」ことが不可欠だ。

明石家さんまという人は、常にテレビ画面の真ん中に立ち、役者や歌手、或いはスポーツ選手や小説家・学者といった文化人までを自分の配下に置く。皆が明石家さんまにひれ伏し追従する。それはつまりお笑いにひれ伏しお笑いに追従することを意味する。誰もがお笑い技量を要求され、お笑い的センスを発揮しようとする。誰もが自己陶酔とは程遠い客観的視点を要求されることでもある。

客観視とは、相対化のことである。自分を唯一無二の特別な存在ではなく、この世を構成する多くのパーツのひとつとみなす。そうすることで自分を含めた今・この時・この状況を外部の目線で捉えることができるようになる。

そうしてこそ皆が驚く発想や発見が得られるのだが、しかしそんな冷めた感性で恋愛などできるものではない。ましてや結婚など、一定の勢いが必要な決断は、なおさらできるものではない。

しかし本当は、自分にとっては自分自身は唯一無二の存在である。そうであるからこそ自分を大切にするし、自分の幸福を追求するようになる。自分自身がこの世の1つのパーツであって、誰かと代替可能であるなら、自分の幸福など殊更求めるようなものではない。

こうしたことから、人は多くの行動を躊躇うようになる。一生懸命に幸福を追求することが何ともむずかゆく、気恥ずかしいことのように思える。自分なんて所詮こんなもんさ。ダメならだめでいいじゃない。なりふり構わずなんて格好悪くてとてもできない。そんな冷笑的な態度に陥っていく。

それもこれも、お笑いの地位が上がり過ぎたせいなのだ。誰もがお笑いを求められ、多少なりとも応えようとしている。それが客観視を昂進させ冷笑的になる。結果として、自分自身に冷めていくのである。

つまりは、明石家さんまが日本の少子化の原因なのである。






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