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ネアンデルタール人と皇室の御存在

私が皇室のことを大切に思うようになったのは、ネアンデルタール人のことを知ってからだ。

ネアンデルタール人は、我々の直接の祖先ではなく、共通の祖先から枝分かれした、いわば親戚にあたる人類である。

ネアンデルタール人と同時代の我々の祖先は、アウストラロピテクスであった。いま、ネアンデルタール人は滅亡し、アウストラロピテクスの子孫である我々が地球上の唯一の人類となっている。

ただ、滅んだネアンデルタール人は、我々の祖先よりも能力が劣っていたわけではない。アウストラロピテクスと同等の知能を持っていたのである。

では、なぜネアンデルタール人は滅んでしまったか。それは、集団の規模の違いである。

アウストラロピテクスは、数千・数万という、かなり大きな集団で生活していた。それに対し、ネアンデルタール人は家族単位、せいぜい10人程度であった。

集団が大きいことは、それだけでメリットがある。

まず第一に、集団同士が出会った場合、圧倒的に大集団が有利である。10人の集団と数万人の集団がまともにぶつかって、10人の集団が勝てることはほとんどないだろう。小集団は数は多いかもしれないが、互いに協力し合うことはない。大集団は小集団を個別に撃破できてしまう。

そしてそれ以上に、ネアンデルタール人もアウストラロピテクスもともに原初的な道具を制作していたが、その広がり方は大きく違ってくる。

ネアンデルタール人が何か新しい石器を発明しても、すぐに広がるのは自分の集団内、せいぜい10人程度だ。これに比べれば、アウストラロピテクスの集団では一挙に数千・数万人に広がる。ネアンデルタール人の発明がアウストラロピテクスと同じ規模でネアンデルタール人に広まるためには、10人程度の集団が数百・数千出会わなければならない。偶然に頼るにしては、果てしない数だ。

とすれば、両者の生産性には歴然とした差ができる。

つまり、人類の最大の武器は、その集団性にある。大きな集団を作れることが、そのまま強みになるのである。

だが、こうした大きな集団を作るのは容易ではない。

ネアンデルタール人の家族単位の集団なら、自分と他の集団構成員との関係は比較的簡単に把握できる。自分の親であったり兄弟であったり子であったり、ということだ。

しかしアウストラロピテクスの集団のように数万人もいては、全員が全員の顔見知りという訳にはいかず、自分と他の構成員との関係も、必ずしも明確には分からない。自分の親の兄弟の配偶者の姉妹の子の・・・などと、数万人分も覚えていられない。

結果、1つの集団としての一体感も結束もなく、とても維持していけないだろう。構成員それぞれが自分の把握できる範囲のみを集団とみなし、小さな集団に分裂することになりかねない。

新たな道具を発明しても、個々の小集団の利益を考えれば他に教えるのは得策ではなく、全体で共有することなどできないだろう。

それでは、どうやって大集団を大集団として維持するか。数千・数万人の構成員が、どうすればお互いが皆仲間であると認識し、一体としてみなせるか。

ひとつの方法は、全員が誰か一人の子孫である、と認識することだ。

構成員全員が、遠い昔の一人か、一組のカップルの子孫であると認めれば、他の構成員が自分から辿ってどのような関係か分からなくても「同じあの人の子孫」だから血縁関係があることは分かる。それならお互いが仲間であり一つの集団であるという意識も持てるだろう。

ただこれも、数十万・数百万という規模になるとどうなるか。

それだけの規模の人数になれば、自然に増えるよりは、以前からある集団が合わさって一つの集団を形成することが多いだろう。そして以前の集団は、それぞれに自分の始祖をもっているはずだ。

となれば、血縁をもって一つの集団とするのは難しい。

そこで出てくるのが「同じリーダーを持っている」という意識だ。同じリーダーの下、同じ利益を共有する者同士である、と考えることだ。

そして、そのリーダーこそが言うまでもなく王であり、日本においては天皇がこれに当たる。

同じ王・天皇を戴き同じ利益を共有する同じ仲間である、だから一致団結し協力して生きていかなければならない。

こうしてより多くの人々が団結して集団を形成し、より大きなスケールメリットを得たのではないかと考えられるのである。

つまり、天皇は今の憲法でも規定されている通り「国民統合の象徴」なのだ。

これは歴史的にも言えることである。

天皇家は実権を持たない時代が長いのだが、かといって取り潰そうなどという勢力は歴史上、ほとんどいない。平家も源氏も徳川家も、実権は渡さずとも天皇家をなくそうなどとは考えなかったのは、この「国民統合の象徴」としての役割を否定できなかったからだ。天皇家の代りに自分たちが象徴となることは出来なかったのである。

※足利義満は、自分が天皇家に取って代わろうとした形跡がある。

日本では、暴動というものがほとんど起きない。大規模災害が起こっても、略奪はほとんどない。

東日本大震災では、被災した人々が自分のことよりも他人のことを心配し、食料の配給などあっても誰も列を乱さず整然と並ぶ姿は世界を驚かせた。

野球やサッカーの応援などでも、自分で出したごみを自分で持って帰る様子が海外では話題になる。

昨今のコロナ禍でも、欧米に比べて感染者も死亡者も少なく、国民の行動を規制する法的根拠も持たない日本が、政府の単なる「お願い」に応じて積極的に自粛する。

これらすべて、日本人が自分や自分の家族だけではなく、国全体・世間全体を自分のこととして思いやっている結果である。集団の利益が自分の利益であるし、集団へ不利益を与えることには非常に大きな躊躇を覚える。

1億2千数百万の我々全員が、同じ日本人という仲間である。そうした集団への一体感・結束・帰属意識が、日本の最大の強みなのだ。

そして、こうした帰属意識の醸成にもっとも寄与しているのが天皇であり皇室なのである。

皇室を蔑ろにすることは日本そのものを弱体化させることに他ならない。私たちは、自らの強みを自ら捨てるべきではないのである。




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